〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/02 (土) 楠正成兄弟兵庫下向の事

楠正成、これを最後と思いひ定めたりければ、嫡子 (チャクシ) 正行 (マサツラ) が十一歳にて父が供 (トモ) したりけるを、桜井の宿より河内 (カハチ) へ帰し遣 (ツカ) はすとて、泣く泣く庭訓 (テイキン) を遺 (ノコシ) しけるは、
「獅子は子を産んで三日を経 (フ) る時、万仞 (バンジン) の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分 (キブン) あれば、教えざるに中 (チュウ) より身を翻 (ヒルガヘ) して、死す事を得ずといへり。况 (イハ) んや汝はすでに十歳に余れり。一言 (イチゴン) 耳に留まらば、吾 (ワ) が戒 (カイ) に違 (タガ) ふ事なかれ。
今度の合戦天下の安否 (アンフ) と思ふ間、今生 (コンジョウ) にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり。正成討死すと聞かば、天下は必ず将軍の代となるべし。しかりといへどの、一旦 (イッタン) の身命を資 (タス) けんがために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行迹 (フルマヒ) を致す事あるべからず。一族若党の一人も死に残ってあらん程は、金剛山に引き籠り、敵寄せ来たらば、命を兵刃 (ヘイジン) に墜 (オト) し、名を後代に遺すべし。これをぞ汝が孝行と思ふべし」
と、涙を拭つて申し含め、主上 (シュジョウ) より給はりたる菊作りの刀を記念 (カタミ) に見よとて取らせつつ、各 (オノオノ) 東西に別れにけり。その消息 (アリサマ) を見ける武士ども皆感涙をぞ流しける。
昔の百里奚 (ハクリケイ) は穆公 (ボクコウ) 晋の国を伐 (ウ) たんとせし時、軍 (イクサ) の利なき事を鑒 (カンガ) みて、その将孟明視 (マウメイシ) に向って、今を限りの別れを悲しむ。今の楠正成は、大敵関西 (クワンサイ) に責め近づくと聞きて、国の必ず亡びん事を愁 (ウレ) へて、その子幼き正行を留め置き、なき跡までの義を勧 (スス) む。彼は晋代の良弼 (リヤウヒツ) 、是は吾が朝 (チョウ) の忠臣、時千載を隔つといへども、前聖 (ゼンセイ) ・後聖 (コウセイ) 一揆 (イッキ) にして、ありがたかりし忠臣かなと、感ぜぬ者もなかりけり。

楠木正成は、いよいよこれが最後の合戦になると覚悟を決めたので、嫡子正行 (マサツラ) が十一歳になって父の供をしていたのを、桜井の宿から河内国へ帰すにあたって、涙ながらに教訓を遺して言った。
「獅子は子を産んで三日を経つと、万仞の高さの岩壁から、母獅子が子を投げ落とすのであるが、もしその子に獅子としての天分が備わっていれば、何も教えないのに宙返りをして、死ぬことはないといわれている。まして、お前はもう十歳を過ぎている。私の一言が耳に残ったならば、私の教えに背かないようにしなさい。今度の合戦は天下分け目の戦になるであろうと思うので、今生でお前の顔を見ることはこれが最後だと思う。正成が討死にしたと聞いたら、天下は必ず将軍の治世になるものと心得なさい。しかし、世の中がそうなっても、その場だけの生命を助かろうとして、長年にわたる忠節を捨てて、降参し、道義にもとるふるまいをしてはならない。一族若党のうち、一人でも生き残っている間は、金剛山に立て籠もって、敵が攻め寄せてきたならば、命を投げ出して戦い、名誉を後の世に残しなさい。こらが、お前のできる孝行だと思いなさい」
と、涙を拭って言い聞かせ、天皇から賜った菊の紋章入りの刀を自分の形見とせよと言って取らせて、父と子は東と西へと別々に分かれて行ったのである。
この有様を見た武士たちは、皆感激して涙を流すのであった。
昔、中国の百里奚は秦の穆公が晋の国を討とうとしたときに、合戦に利のないことを考えて、秦の武将である我が子孟明視に向かって、今生での別れを悲しんだ。
いまの楠木正成は大敵が都の西に近づいたと聞いて、国が必ず滅びるであろうことを悲しんで、幼な子正行を残しておいて、自分の死後までの忠義を促したのである。
百里奚
は晋の代の良臣であり、正成は我が朝の忠臣である。時代は千年を隔たっているとはいえ、良臣の行為はいつもその軌を一にしており、世にも稀な忠臣であると感激しない者はいなかった。

太平記A 校注・訳者:長谷川 端 発行所:小学館 ヨ リ