〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/01 (金)  雨 の 坂 (三)

秋山真之の生涯も、かならずしも長くはなかった。大正七年二月四日、満五十歳で歿し た。
日露戦争のあとの彼は海軍内部における穏当な官僚ではなかった。一見、突拍子もな い言動がしばしば人を面食らわせ、一部では一人格に天才と狂人が同居しているので はないかといわれたりした。
── 君は頭脳を休める工夫をせよ。
と、真之がかって仕えた上司の参謀長だった島村速雄がしばしば忠告したが、島村の いう 「扇風機のような」 頭脳は日本海における作戦の任務が終ってからも他に目的を求 めて旋回し、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけ たりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった。
ただ第一次世界大戦がおこったとき、彼は公務でパリへ行き、この大戦の進行と結末に ついての予想をたて、ことごとく適中させたことぐらいが真之らしい挿話というべきもので あった。
真之は大正六年中将に昇進したが、すでに健康を損なっていたためそのまま 待命なり、三ヵ月後に死んだ。
彼はたまたま小田原の別荘に泊めてもらっているときに慢性腹膜炎が悪化し、二月四日 未明、吐血して臨終をむかえた。
臨終の時枕頭に集まっていた人々に、
「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」 といった。それが最期の言葉だった。
兄の好古は検閲のために福島県白河に出張中で 、小田原に集まっている人々に 「ヨロシクタノム」 という電報を打っただけであった。
好古はやや長命した。
彼は大正五年に陸軍大将になり、同十二年予備役に入った。その翌年故郷の北予中 学校の校長になり昭和五年満七十一歳で病没する年までその職を続け、やがて死の年 の四月に辞任して東京へ帰った。老後を養うつもりであったが、ほどなく発病した。
病名は糖尿病と脱疽 (ダッソ) である。左足の痛みがはなはだしく、当人は最初は神経 痛だと思っていた。
入院前、赤坂丹後町の借家に訪ねて来た松山の幼友達に、
「もうあしはすることはした。逝ってもええのじゃ」 と言ったりした。
やがて牛込戸山町の陸軍軍医学校に入院し、はじめて酒のない生活に入った。
医師た ちは左足を切断することにずいぶんためらったが、結果はその手術をおこなった。
しか し菌は切断部よりも上部に侵入していた。
手術後四日間ほとんど昏睡していたが、同郷 の軍人で白かW白川義則 (ヨシノリ) が見舞いに来た時、好古の意識は四十度近い高 熱の中に漂っていた。
彼は数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、彼の魂魄 はかれを苦しめた満州の戦野をさまよい続けているようであった。
臨終近くなったとき、 「鉄嶺 (テツレイ) 」 という地名がしきりに出た。
やがて、
「奉天へ。── 」
と、うめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。
司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ