〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/01 (金)  雨 の 坂 (一)

真之は文章家とされた。
たしかに彼の文章は簡潔でしかも波涛 (ハトウ) の中で砲火の閃々ときらめくような韻律性に富んでおり、さらにはあたらしい観念を短切に表現するための造語力を持っていた。
ただ彼は文士ではなく、その文章は公文書のかたちで発表されたものであったが、しかし同時代の文章日本語に少なからぬ影響を与えた。
彼の書いた文章の特徴は、たとえば連合艦隊司令長官東郷平八郎が海軍軍司令部長伊東祐亨へ送った戦闘詳報にもよくあらわれている。我々はこの文書によって日本海海戦の戦闘経過を的確に知ることが出来るがが、そに事実関係で組みあげられた膨大な報告文の冒頭は一個の結論からはじまっている。
「天佑ト神助ニ由リ、我ガ聯合艦隊ハ五月二十七八日、敵ノ第二、第三聯合艦隊ト日本海ニ戦ヒテ、遂ニ殆ト之ヲ撃滅スルコトヲ得タリ」
から始まり、以後、
「初メ敵艦隊ノ南洋ニ出現スルヤ、上命ニ基キ、当隊ハ予メ之ヲ近海ニ迎撃スルノ計画ヲ定メ、朝鮮海峡ニ全力ヲ集中シテ徐 (オモムロ) ニ敵ノ北上ヲ待チ・・・・」
といきなり事実関係に入っている。
これを、ロジェストウェンスキーがその皇帝に上呈した電報の報告文に比較すると、ロ提督のそれは単に経過を書き、結論もなく、しかも文章の多くは自分の運命について割かれており、自分が負傷したこと、知覚を失ったこと、自分が意識不明の間に、自分が収容されていた駆逐艦が日本側に降伏したことなどが書かれ、全般の戦況は不得要領にぼやかされ、勝敗についてもふれられていない。報告文においてもロジェストウェンスキーが日本側よりはるかに劣っていた。
この艦隊が東京湾に凱旋したのは十月二十日である。大将旗がかかげられた旗艦敷島はこの日横浜港に入り、水煙をあげて錨を切れた。
その翌々日、東郷は参内しなければならなかった。凱旋の奏上をするためであった。 凱旋の奏上は日清戦争の例では口頭であり今度もその先例に準 (ヨ) るはずと参謀長の加藤友三郎も思っていたところ、陸軍がすでに文章を作り上げていると知り、加藤はあわてた。東郷が上陸する前日のことである。
参謀清河大尉の記憶では、加藤があわただしく幕僚室に入ってきた。このとき清河は真之と一緒に長唄の蓄音機を聴いており、真之はソファに寝ころがっていた。
「秋山さんはむくりと起きあがって」
と、清河のはなしにある。真之はすぐその場で筆をとり、しばらく筆を噛んで考えている様子だったが、あと一気呵成に書きあげた。それが、 「客歳二月上旬」 という文章から始まる凱旋奏上文である。
「客歳二月上旬、連合艦隊カ、大命ヲ奉シテ出世シタル以来、茲ニ一年有半・・・・・・今日復ヒ平和ノ秋 (トキ) ニ遇ヒ、臣等、犬馬ノ労ヲ了ヘテ大纛 (タイトウ) (註・天皇旗) ノ下ニ凱旋スルヲ得タリ。 (以下省略)

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ