〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/01 (金) 楠正成兄弟以下湊川にて自害の事

楠判官 (ハウグァン) 正成、舎弟七朗正李 (マサスエ) に向って申しけるは、「敵は前後 を遮って、御方 (ミカタ) は陣の隘を隔てたり。今は免れぬところろ覚ゆなり。
いざや、ま ず前なる敵を一散らし追 (オ) ひ捲 (マク) つて、後 (ウシロ) なる敵に戦はん」 と申しけ れば。正李、 「然るべく存じ候ふ」 と同 (ドウ) じて、七百余騎を前後に随 (シタガ) へ、 大勢 (タイセイ) の中へぞ蒐 (カ) け入りける。
左兵衛督 (サヒャウヱノカミ) の兵ども、菊 水の旗を見て、吉 (ヨ) き敵なりと思ひければ、取り込んでこれを討たんとしけれども、正 成・正李東西へ破 (ワ) って透 (トホ) り、南北へ追ひ靡 (ナビ) け、吉き敵と見るをば馳 せ並んで組んで落ち、合はぬ敵と思ふをば一太刀 (ヒトタチ) 打つてぞ蒐 (カ)け散らす 。正成・正李、七度合って七度離る。その志ひとへに直義 (タダヨシ) に近付かば組んで 討たんと思ふにあり。
されば、左兵衛督の五十万騎、七百騎に蒐け散らされて、須磨の上野へ引き退く。
大 将左兵衛督の乗り玉へる馬、鏃を蹄に踏み立てて、右の足を引きける間、楠が兵ども攻 め近づいて、すでに討たれ給ひぬと見えけるところに、薬師寺 (ヤクシジ) 十郎ただ一 騎返し合はせて、馬より飛び下りて、二尺五寸の小長刀 (コナギナタ) の石突 (イシヅキ) を取り延べて、懸かる敵の馬の平頸 (ヒラクビ) ・むながいづくし突いては? (ハ) ね落とし 、七、八騎が程切って落としけるその隙に、直義馬を乗り替へて、遥かに落ち給jひけり 。
左兵衛督の兵、楠に追ひ靡けられ引き退き玉ふところに、畠山修理太夫 (ハタケヤマス リノタイフ) ・高 (コウ) ・上杉 (ウエスギ) の人々、六千余騎にて湊川の東へ蒐け出でて、 楠が跡を追ひ切らんとぞ取り巻きける。楠兄弟取つて返し、この勢いに馳せ違うて組ん で落ちて、討たるるもあり、人馬の息を継がせず、三時 (ミトキ) ばかりの戦ひに、十六度 までぞ揉み合ひたる。されば、その勢い次第に減じて、わづかに七千余騎にぞなりにけ る。この勢にても打ち破って落ちば、落つべかりけるを、楠京都を立ちしより生きて帰らじ と思ひ定めたる事なれば、一足も引かんとはぜず、闘ふべき手の定 (ジヤウ) 戦ひて、 機 (キ) すでに疲れければ、湊川の北に当る在家 (ザイケ) の一村ありける中へ走りは入 り、腹を切らんとて舎弟正李に申しけるは、
「そもそも最後の一念によって、善悪生を? (ヒ) くといへり。九界 (クカイ) の中には、何 (イズ) れのところか、御辺 (ゴヘン) の願ひなる。直 (ジキ) にその所に到 (イタ) るべし」 と問へば、正李からからと打ち笑ひて、
「ただ七生 (シチシャウ) までも同じ人間に生まれて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」
と申しければ、正成よにも心よげなる気色 (ケシキ) にて、
「罪業 (ザイゴウ) 深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさらば、同じく生を替へ て、この本懐を遂げん」
と契って、兄弟ともに指し違へて、同じ枕に伏したれば、橋本八郎正員 (ハシモトハチロ ウマサカズ) ・宇佐美 (ウサミ) ・神宮寺 (ジングウジ) を始めとして、宗徒 (シュウト) 一族 十六人、相随 (アヒシタガ) ふ兵五十余人、思ひ思ひに並居 (ナミヰ) て、一度に腹をぞ 切つたりける。
菊地七朗武朝 (キクチシチロウタケトモ) は、兄の肥前守 (ヒゼンノカミ) が使にて、須磨 口 (スマグチ) の合戦の体 (テイ) を見に来たりけるが、正成腹を切るところへ行き合うて 、ここを見捨てはいづくへ帰るべきとて諸共に腹掻 (カ) 切つて、同じ枕にぞ臥してりける 。
元弘已来 (ゲンコウコノカタ) かたじけなくもこの君にたのまれ進 (マヰ) らせて、忠を致 し功に誇る者何千万 (イクセンマン) ぞや。
しかるを、この乱不慮に出 (イ) で来て後、仁 (ジン) を知らざる者は朝恩 (チョウオン) を棄てて敵に属 (ショク) し、勇 (イサミ) なき者 は賎しくも死を免 (マヌカ) れんと刑戮 (ケイリク) に逢ひ、智なき者は時の変を弁 (ワキ マ) へずして道に違 (タガ) ふ事のみ多かるに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道 (ゼンド ウ) に守る者は、古より今に至まで、この正成程の者はなかりつるに、免 (ノガル) るべき ところを遁 (ノガ) れず、兄弟ともに自害して失 (ウ) せにけるこそ、聖主再び国を失ひ、 逆臣横 (ヨコシマ) に威 (ヰ) を振るふべきその前表 (ゼンペウ) のしるしなれとて、才ある 人は密かに眉をひそめける。

楠木判官正成は、その弟七郎正李 (マサスエ) に向かって、
敵はわれらの前後を遮断して、味方の陣営はその間が隔たった。いまはもはや逃れられない運命であると思う。さあ、まず前面にいる敵をさっと蹴散らし、追い散らして、それから後方の敵と戦おう」
よ言うと、正李は、
「それがよいと思います」
と賛成し、七百余騎を二人の前後に従えて大軍勢の中へ駆け入った。
左兵衛督直義 (タダヨシ) も軍勢は菊水の旗を見て、これはよい適だと思ったので、包囲して討とうとしたけれども、正成・正李は大軍勢を東西へ割って通り抜け、南北に追いまくり、よい敵だと見た武士に対しては馬を並んで走らせ、組み打っては馬から落し、不足な相手と思う敵に対しては一太刀浴びせて追い散らした。正成・正李は七度出会って七度別れて戦った。その志すところは、ただただ直義に近づいたら組み打ちをして討ち取ろうとするところにあった。
さて、左兵衛督の五十万騎は楠木の七百騎に駆け散らされて、上野山の須磨寺へ後退した。大将左兵衛督がお乗りになっていた馬は矢尻を踏んで蹄に突き刺し、右足を引きずっていたので、楠木の軍勢が追いついて、左兵衛督が危うく討たれそうになったところへ、薬師寺十郎がただの一騎でとって返し、馬から飛び降りて、刃渡り二尺五寸の小長刀 (コナギナタ) の石突の部分を握って長刀を長く使って、打ちかかる敵の馬の平首や鞅 (ムナガイ) づくしを突いて、騎乗の武者を馬からはね落しはね落しして、七、八騎ほど切って落としたその隙に、左兵衛督直義は馬を乗り替えて、はるか遠くまで逃げ延びたのであった。
左兵衛督の軍勢が楠木勢に追いたてられて退却なさるとところへ、畠山修理大夫・高・上杉の人々が、六千余騎を率いて湊川の東へ駆け出して、楠木勢の背後を断とうと包囲した。楠木兄弟は取って返し、楠木勢はこの新手の軍勢と入り乱れて戦い、組み打って馬から落ちて討たれる者もあり、人も馬も息をつかずに六時間ほどの合戦に、十六度まで入り交わって戦った。それゆえ、楠木勢は次第に討たれて、残りわずか七十余騎となったのであった。たとえ「この人数でも敵陣を打ち破って逃れようとすれば逃れることが出来たのであったが、楠木は京都を出発したときから、生きては帰るまいと決心していたことなので、一歩も退くことなく、戦える力のありったけを出して戦ったのである。もはやすっかり精魂尽き果ててしまったので、湊川の北にあった一群の民家の中に走り入り、腹を切ろうとして、正成は弟正李に、
「そもそも人間は、最期の一念によって、来世に極楽へ行けるか地獄へ堕ちるかが決まるという。九つの世界の中で、お前が行きたいと願うのはどこであろうか。すぐそこへ行こうではないか」
と問うた。すると、正李はからからと笑って、
「それでは七生まで生まれ変わっても、やはり同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼしたいと思います」
と答えたので、正成は、心からうれしそうな様子で、
「罪業の深い、救われない考えではあるが、私もそう思っている。さあ、それでは、同じように生まれ変わって、このかねてからの願いを果たそうではないか」
と約束して、楠木兄弟は刺しちがえて、同じ所に倒れ伏したのである。
さらに橋本八郎正員・宇佐美・神宮寺を始めとして主だった一族十六人、それに従う兵たち五十余人も思い思いに居並んで、同時に腹を切ったのであった。
菊地七朗武朝は、兄の肥前守の使者として、須磨口の合戦の有様を見に来ていたのであったが、正成が腹を切る場面に来合わせて、これを見捨ててどこへ帰ることができようかと、楠木氏の武士たちとともに自らも腹を切って、同じように倒れ伏したのである。
元弘よりこのかた、恐れ多くも後醍醐天皇の御信頼を受けて、忠義を尽くし戦功に誇る者は何千万いたであろうか。しかし、尊氏による乱が、思いがけなく起こって以後、仁を理解しない者は朝廷の恩を捨てて敵につき、勇のない者は卑怯にも死から逃れようとして刑罰にあい、知恵のない者は時の移り変わりを理解できず道理にはずれたふるまいばかりすることが多い中にあって、智・仁・勇の三徳を兼ね備えて、人としての正しい死に方を守った人は、古から今に至るまで、この正成ほど立派な人はいなかった。しかし、それなのに正成は逃れられるところを逃れずに、兄弟ともに自害して果てたことは、帝が再び国を失い、逆臣が思いのままに暴威を振るうであろう前兆であると、知恵ある人々はひそかに憂えるのであった。

太平記A 校注・訳者:長谷川 端 発行所:小学館 ヨ リ