〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/26 (日)  二 〇 三 高 地 (十九)

「二十八サンチ榴弾砲をもって、二〇三高地越えで港内の軍艦を射て」
と、児玉が命じた時、乃木軍の攻城砲兵司令官豊島陽蔵は、
(こればかりは拒否せねば)
と、思った。児玉に対して乃木軍司令部が示した最後の抵抗であったであろう。
豊島少将は、まるで牛のように児玉のために鼻面を引き回されてきた。
今日の午前十時 過ぎも、そうであった。
斎藤少将の決死隊が二〇三高地の西南角へ突入した時、児玉 は、
「観測班をただちにあの西南角へ登らせよ」
と、豊島に命じたのである。まだ東北角のロシア軍が抵抗を続けている時であった。大 体、歩兵の突撃にくっついて砲兵の観測将校が有線電話をひっぱて駆けのぼるという ような戦闘は、砲兵の常識にはなかった。危険であり、観測将校の戦死を、豊島は気づ かった。が、児玉はきかなかった。
観測所が、設置された。
── そこから旅順港は見えるか。
という、児玉の有名な言葉が、電線を通じて西南角の頂上にいる観測将校に伝わった のは、この時であった。
── 見えます。まる見えであります。
という旨の観測将校の返事が聞こえた時児玉は軍艦砲撃を決意した。砲兵陣地は、山 頂の観測将校が指示するままに照準を合わせて砲弾を送り出せばよい。
それを、豊島に命じた。豊島は、かねて児玉のその意図に気づいていたから、反対の理 由を即座に言った。
「それは、不可であります」
「理由、──」
児玉は、みじかく叫んだ。理由を言え、というのである。
理由は、砲兵科出身の者なら、たれでも同じことをいうであろう。
まず、二十八サンチ榴弾砲というのはいかに巨砲でも徹甲弾ではなく榴弾をうち出すわ けであり、軍艦を貫くことが出来ない。
ついで、軍艦を射てば、軍艦が報復してくる。まず二〇三高地の観測所を吹っ飛ばす であろう。ついで山頂の陣地を破戒し、さらに、今は山麓近くまで前進して来ている砲兵 陣地を砲撃するにちがいない。口径の小さい陸軍砲と口径の大きい海軍砲とが勝負を すれば、その結果は明瞭であった。
豊島はそのことを主張した。
(この男、すこし馬鹿か)
と、児玉は豊島の口ひげのあたりをしみじみと見た。口ひげはしきりに動いていた。
児玉 にすれば、そもそもこの乃木軍による旅順要塞攻撃は海軍側からの要請によるものであ った。そのその海軍の要請というのは、港内にひっこんで外洋へ出ないロシア旅順艦隊 に手こずったあげく、陸上からの要塞占領を陸軍にいらいした、ということなのである。
その後、乃木軍はこのために大苦戦をせねばならなかったが、その目的はあくまでも単 純であった。港内の軍艦を沈めれば足りる。沈めてしまえば、東郷艦隊は封鎖を解き、 佐世保に帰って艦艇の修理をし、きたるべきバルチック艦隊に備えることが出来るので ある。
(あまり戦闘の苛烈」さが続いたせいか、豊島の帽子の下がぼけてしまったらしい)
児玉は、にがい表情をつづけている。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ