〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/26 (日)  二 〇 三 高 地 (十八)

「田中ァ、なにをぼやぼやしとる」
と、児玉は田中国重少佐を振り返るなり怒声を発した。
その頭上を、砲弾が飛び去った。
「馬鹿か」
田中は、児玉の怒りの目標が自分の方に転換されたことに驚いた。
「おぬしも将来、師団長にもなり、司令官にもなるはずの男だ。このような友軍が苦戦しち ょるときに、適切な指揮に任ずるのが当然ではないか。しかるにないをぼやぼやと観戦し ちょる。おぬしは外国の観戦武官か」
田中は、土から胸を起こして、
「はいっ」
と、返事をしてみたが、といって彼は師団長でも司令官でもないため、指揮権はなく、指 揮すべきではない。当惑した。が、すぐ田中は、児玉が自分を叱ることによって、観戦中 の軍司令官乃木と二人の師団長を暗に諷 (フウ) したのであろうと気づいた。
田中は振り返って乃木の顔を見たが、しかし気の毒ですぐ視線を反らした。二人の師団 長も、乃木のそばで、茫然としている。
(むりだ)
と、田中は思った。指揮せよ、というが、双眼鏡内の光景を見て、何をどう指揮するので あろう。まさか、陸軍大将や中将が、歩兵の小隊長や分隊長になって突撃することも出 来ないではないか。
が、一瞬ののち、児玉はそのことを忘れたらしく、
「豊島ァ」
と、攻城砲兵司令官を呼んだ。
「二十八サンチ榴弾砲の準備は全部完了したか」
「あと二十分ほどで完了すると思います」
と、少将豊島陽蔵はこたえた。
「その二十八サンチ榴弾砲をもって、二〇三高地の山越えに旅順港内の軍艦を射て」
と、児玉が言ったから、豊島はその言葉の無謀さに、あきれるよりも憤りをおぼえた。砲 兵の立場から言えば、そういう無茶なことができるはずがなかった。豊島は沈黙した。
児玉も、そのことは忘れたように二〇三高地の頂上付近に双眼鏡の焦点をあわせてい る。
児玉の重砲陣地の大転換は、見事な功を奏しつつあった。
元来、二〇三高地へむかう日本兵は、二〇三高地の敵陣地からの銃砲火よりも、そのま わりの諸砲台からの砲撃のために全滅を繰り返してきたのである。
ロシアの要塞の火網 構成のみごとさを、日本軍は無数の生命をそこへ投げ入れることによって堪能 (タンノウ ) するほど知らされた。
児玉の砲兵戦術は、二〇三高地の周辺砲台を沈黙させることに あった。
その結果、あれほど日本歩兵の上に猛威をふるっていた鴨湖嘴 (オプコシ) の砲台が 沈黙した。
ただし北太陽溝の諸砲台は、なお生きていた。が、日本軍重砲の連続猛射によって次 第におとろえつつある。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ