〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/26 (日)  二 〇 三 高 地 (十七)

児玉はこの第七師団司令部で、できるだけ精緻 (セイチ) に戦況を知っておこうとした。
児玉はこの前夜、随行田中国重少将に命じ、
「第七師団の参謀に攻撃正面の地図を書かせておけ」
と言っておいた。
すでにその地図ができている。
児玉は天眼鏡を出し、その地図に見入った。一枚の紙に、無数の軍隊符号が書き込ま れており、それがいかにも雑然としているのは、戦況の惨烈さのために諸隊がたがいに 入り混じっているせいであろう。
児玉は、その符号の一つ一つに意味を見出しながら凝 視していたが、やがて同じ中隊が左翼にも右翼にもいることを発見した。
(これはどういうわけだ)
と考えたが、意味が分からない。やがて、師団参謀の書き間違いであることがわかった。
書き間違いというより、その参謀が、現地を知っていない証拠であった。
現地からの報告 だけを基礎に参謀はそれを机上で組み立てて作戦計画を練っているということが、これ だけでも明白であった。
軍司令部にせよ師団司令部にせよ、この戦いを連戦連敗さ せている主たる原因はここにあった。そのことは、児玉は繰り返し指摘してきた。
それだけに、地図を覗き込んでいる児玉の怒りはすさまじかった。
(この連中が人を殺してきたのだ)
と思うと、次の行為が、常軌を逸した。彼は地図の向こうにいる少佐参謀におどりかかる なり、その金色燦然 (コンジキサンゼン) たる参謀懸章を掴むや、力任せに引きちぎった 。
「貴官の目は、どこについている」
とどなった。次の言葉が、長く伝えられた。
「国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない」
少佐参謀は、顔面蒼白になって突っ立っている。この少佐は、児玉が何故怒っているの か、理由がわからないらしかった。
「見ろ」
児玉は、地図の一ヶ所を叩いた。
少佐参謀はそれへ覗き込んだが、やがて理由がわかったらしく顔をあげたが、しかしこ の地図の粗漏さに恐れ入っているような表情ではない。児玉の怒りがどの程度であるか を窺 (ウカガ) うべく、自分の表情をわざと鈍くした。官僚としての自己防衛の心理の強さ は、参謀軍人の通弊ともいうべきものであった。
「しかし、報告はそうなっております」
と、参謀懸章を引きちぎられた屈辱もあって、ややふてぶてしく言った。
「自分で、見なんだのか」
と、児玉は、他の参謀たちにも聞かせるように、大声をあげた。他の参謀も、児玉のこの 処置を決して愉快とは思っていなかった。参謀が第一線の突撃部隊の線までゆく必要 があるだろうか。児玉は、この無言の問いをすばやく感じた。
「参謀は状況把握のために必要とあれば敵の堡塁まで乗り込んでゆけ。机上の空案の ために無益の死を遂げる人間のことを考えてみろ」
児玉は、帽子をつかんで部屋を出た。
前線へ行くつもりであった。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ