〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/26 (日)  二 〇 三 高 地 (十五)

次いで、児玉命令の第二項について、佐藤鋼次郎砲兵中佐が、苦情を申し立てた。
「閣下は、歩兵が二〇三高地を占領したあと、その占領を確実にするため、二十八サン チ砲をもって、一昼夜十五分間隔でぶっとおしに二〇三高地に援護射撃を加えよとお っしゃいましたが」
「うむ、言った」
「となれば、見方を射つおそれがあります。おそれというとりその公算大であります」
これこそ、玄人論であった。砲兵の援護射撃の難しさは、見方の歩兵の頭上すれすれ に砲弾を飛び越えさせて、敵だけを粉砕することにある。ところが、二〇三高地頂上のよ うな狭い場所で、敵味方のせりあいが錯綜 (サクソウ) しているとき、とても援護射撃など は出来ない。味方もろとも粉砕してしまう恐れがあるからだった。要するに佐藤は、砲兵 の常識としてそういう場合は援護射撃はしないのだ、ということを言いたいのである。
「そこを上手くやれ」
と、児玉は穏やかに言った。
佐藤は、承知しなかった。
「陛下の赤子を、陛下の砲をもって射つことは出来ません」
と言ったから、児玉は突如、両眼に涙を溢れさせた。
この光景を、児玉付きの田中国重少佐は、生涯忘れなかった。児玉は彼なりにおさえて いた感情を、一時に噴出させたのである。
「陛下の赤子を無為無能作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、 兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ。援護射撃は、な るほど玉石ともに砕くだろう。が、その場合の人命の損失は、これ以上この作戦を続けて ゆくことによる地獄に比べれば、はるかに軽微だ。いままで何度か、歩兵は突撃して山 上にたどりついた。そのつど逆襲され殺された。その逆襲を防ぐのだ。防ぐ方法は、一 大巨砲をもってする援護射撃以外にない。援護射撃は危険だから止めるという。その手 の杓子定規の考え方のために今までどれだけの兵が死んできたか」
乃木は黙っている。
児玉は、さらに言った。
「先刻、耳にしたところによれば、二〇三高地の西南の一角に、百名足らずの兵が、昨 晩から貼りついているそうだ。彼らは歩兵の増援どころか、砲兵の援護もなく、ただ寒風 にさらされて死守しているらしいという。その姿を、この場にいる者で見た者があるか」
児玉は、一座を見まわした。おどろくべきことに、この軍司令部では、司令官をはじめ、 その幕僚のたれもが、その光景を見に行った者がないのである。
「名誉ある勇士の死が迫っている。それを救おうともせず、またその山頂の確保を拡大し ようともしないというのは、どういうわけだ」

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ