〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/26 (日)  二 〇 三 高 地 (十三)

作戦会議が、開かれた。
はじめの三十分、児玉に対して状況報告がおこなわれた。
児玉は報告者の方を見ず、どういう訳か湯上りのいうに顔を赤くして、そっぽを向いてい た。さっき、ブランデーを飲んだ、が、あの程度のアルコールで酔うような男ではなかっ た。
(もはや、会議も報告も必要ではない。命令あるのみだ)
と、児玉は思っている。
彼はこの第三軍幕僚たちに対し作戦の百八十度転換を命令しようとしていた。いまの現 段階では、それだけが必要であった。
児玉はやがて報告を打ち切らせ、立ち上がった。
「以下は命令である」
と言い出したから、一同の者は動揺した。そうであろう児玉源太郎がいかに陸軍大臣で あり、総司令官大山巌の総参謀長であるにしても、要するに大山の幕僚にすぎない。
幕僚に命令権などはなかった。幕僚が命令を下すなど、統帥権の無視であり、軍隊秩 序の破壊行為であるとしかいえない。
児玉としてはこの場合、
私は大山総司令官の代理として来ている。それについての書状はここにある。さらに第 三軍の乃木軍司令官の軍司令官としての職権を一時停止し、私が代行する。それにつ けてのことも大山閣下の書状に書かれており、さらに乃木希典からも一札を取っている」
と言えば、一同はまがりなりにも了解するであろう。
が、児玉の 「命令」 に法的根拠が出 来たとしても、その異例さはほとんどクーデターにも似たものとして、一同は印象するで あろう。
そう印象されることは、避けたほうがよい。さらにその大山と乃木の書状を児玉が 出してしまえば、児玉の立場は明快になるにしても、乃木の面目は丸つぶれになる。乃 木思いの児玉は、その方法を取りたくなかった。
このため児玉は、自分の立場については、
「大山閣下の指示により、乃木軍司令官の相談にあずかることになった」
と、言っただけである。ひどく市井的な表現で、法と秩序を重んずる軍隊社会に通用で きるセリフではなかった。
が、児玉はそう言っただけで、あとは、
「攻撃計画の修正を要求する」
と、言ってしまった。
乃木がいうべき言葉であった。一同、児玉の横に座っている乃木の顔を見た。乃木はこ とさらに表情を消し、一個の置物に化したように沈黙していた。
児玉の命令は、これまでの第三軍の戦術思想からいえば、驚天動地のものであった。
「まず、一つ」
と、その第一項を口早に言った。
「二〇三高地の占領を確保するため、すみやかに重砲隊 (火石嶺付近) を移動して、そ れを高崎山に陣地変換し、もって敵の回復攻撃を顧慮し、椅子山の制圧に任ぜせしむ 」
「二つ。二〇三高地占領の上は、二十八サンチ榴弾砲をもって、一昼夜ごと、十五分を 間して連続砲撃を加え、敵の逆襲に備えうべし」
以上、砲兵の常識から言えば、まるで不可能のことであった。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ