〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/25 (土)  二 〇 三 高 地 (十一)

すでに、日が傾きはじめている。宿をみつけねばならなかった。児玉は馬を進めて高崎山の山脚に入ると、ちょうどその山腹に壕が掘られてあるのを発見した。
「乃木、今夜は二人でここで寝よう」
と、児玉は言った。乃木はちょっと驚いた。乃木は戦場から遠い柳樹房の軍司令部以外の場所で寝たことがない。ここは第一線よりなお遠いとはいえ、重砲の陣地が集中しているところからいえば、前線であった。
児玉はかねて、
── 乃木軍の司令部は弾の飛ぶ場所から遠すぎる。あれでよく前線の状況がわかるものだ。
と、痛烈に叱責していたが、今あらためて乃木に対し、
── 司令部が本気で戦をするつもりなら、こういう場所まで前進すべきだ。
ということを、暗に悟らせようとしていた。児玉は、乃木の副官を呼び、その穴の中にアンペラを敷き、寝具を置き、断防具を持ち込み、小机、ランプなどを入れるよう依頼した。
ほどなくその準備がととのうと、児玉は、入り口の毛布をくぐって乃木を誘い入れた。中は畳二枚ほどの広さがあった。
「呼ぶまで、入るな」
と、児玉は命じた。児玉に同行した参謀少佐も、入室する自由を制限された。田中は、入り口の番人のようにそこに大きな幕舎を張らせ、児玉に用がありしだいすぐ起きられるような態勢をとった。乃木の副官もそうした。
この穴の中で日露戦史上、統帥に関して、もっとも重大なことを乃木に言うつもりであった。
「軍司令官としての指揮権をしばらく停止し、自分にそれを委譲せよ」
ということであった。乃木希典の身になってみれば、これほどの不名誉と屈辱はないであろう。
児玉も若いころからの友人として、乃木をそのような立場に追い込むことがつらかった。が、この旅順の要塞下で無益に死んでゆく日本人と日本国家のために、児玉はそれをせねばならないと思った。
児玉がもっともおそれていたのは、乃木が、
「いやだ」
といった場合のことであった。乃木にそれを言う理由は十分以上にあった。軍司令官というのは ── 師団長もそうだが ── 天皇が親授する職なのである。天皇以外の何者もその指揮権を剥奪するすることが出来ないはずであった。
が、児玉が、この戦史上未曽有の処置をおこなうに当って、大山巌の命令書をポケットに入れてきていることは。すでに触れた。満州軍総司令官である大山巌なら、
── 自分が乃木に代わって指揮をとる。
ということは、法的に言えない事はない。児玉のポケットあるのは、その命令書であった。ただし大山自身が大三軍の指揮をとるのでなはく、 「大山の代理としての児玉」 に指揮をとらせようというものであった。
両人は、小机を隔てて向かい合った。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ