〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/25 (土)  二 〇 三 高 地 (十)

そのあと、児玉は乃木司令部の作戦いついて痛烈な批判をし始めた。彼が伊地知にあびせた言葉ほど、すさまじいものはないであろう。
いくつかの熟語に要約すれば、無能、卑怯、臆病、頑固、鈍感、無策といったふうなもの、軍人としてその一語でも聞けば愧じて自殺しかねまじいほどのもので、伊地知は当然なことながら怒りで血の気を失い、ある瞬間には左手で佩剣の鞘をつかんだりした。児玉を殺したい、という衝動を、伊地知は押さえかねたにちがいない。
ついに、
「旅順のこの戦況をもって第三軍司令部のみの責任にしようとなさるのは、閣下の卑怯というものでしょう。先ず第一に大本営が悪い。同時に、閣下、あなたの御責任でもあります。ではないですか」
と、逆襲してきた。
児玉は、伊地知の議論の幼さに驚いたらしい。
「伊地知、悩乱したか。帝国が、この方面の戦争の責任を乃木とお前に負わせたのだ。お前は参謀長ではないか」
と、急に子供にい聞かせるようにして言った。
「私は左様なことを申しておりません。たとえば閣下、閣下は私が申請した砲弾量を満足に呉れたことがありますか」
(こいつは、子供だ)
と、児玉はいよいよ思った。
伊地知は、つい最近のことを言っている。伊地知は砲弾の量をふやしてもらうことについて、大山・児玉の総司令部あて、書面で嘆願し、電報で嘆願し、ついには作戦主任の白井中佐を派遣して嘆願させたが、児玉はその都度却下した。
「この弾丸不足で、どうして戦えといわれるのです」
「弾丸不足は、日本軍傳隊の問題だ。内地での砲弾の生産が追っかない。外国へ発注しているが、すぐの間に合わない。その乏しい弾丸を、野外決戦用とこの旅順攻撃用になんとか配分しているが、必要の半分もまかなえない。伊地知、日本は旅順だけで戦っているのではない。そんなことがわからんのか」
「閣下の責任を問うているのです」
「お前は、女か」
と、児玉は立ち上がった。自己中心的な視野しかもてないという意味で、児玉はそう言ったのであろう。
「軍参謀長でありながら、おのれの作戦の責任を他に転嫁するというなら、いっそステッセルのもとに行って責任を問うてきたらどうが。貴官が強すぎます、責任は貴官にあります」
「なにをくだらないことを」
と、伊地知は咆 (ホ) えた。
「ともかく閣下、閣下がこの戦況を何とかしようと思われるなら、砲弾をください」
「砲弾が欲しいのは、どの軍も同じだ。与えられた条件下で最善を尽くすのが参謀官の仕事ではないか」
「最善を尽くしています」
と言ったから、児玉もこれ以上の長居は無駄だと思った。
乃木を探し出して、乃木とかけあおうと思った。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ