〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/25 (土)  二 〇 三 高 地 (九)

やがて天にひびく砲声が近間に聞こえはじめたころ、汽車は柳樹房 (リュウジュボウ) 付近に着いた。停車場はない。下士官たちは貨車の下に踏み台を置いた。
貨車の扉が開き、人がつぎつぎと飛び降りた。あたりは大地が茶褐色に起伏しているだけの景色で、ところどころに冬木が、鋭い枝を天に突き刺している。
「歩いてゆこう」
と、児玉が言ったため、騎馬で迎えに来た将校も、馬から降りざるを得なかった。
児玉は軍人のくせに馬に乗ることが好きではなかった。というより、八カ月の早産であった彼は、軍人であるには体格が小さすぎ、西洋馬の大きな馬腹を締めつけるだけの長い脚をもっていなかった。
「ずっとお歩きになりますか」
と、少佐田中国重が念を押した。田中は、多少のからかいを込めたつもりであった。
「うん」
児玉は、さきに立って歩きはじめた。そぐそこに柳樹房の部落と、冬木の林が見えるのである。
やがて道が下りになり、小川がある。むろん水は涸 (カ) れていた。そのむこうに乃木軍司令部の建物がある。
この建物は、柳樹房では大百姓の部類に入る周運来という者の家を借り上げたもので、門を入ると、すぐモミ干し庭になっており、その右手にエンジュの巨樹がある。樹の下に、電話と電信の設備があった。
正面に横長のお母屋がある。
これが司令部で、中央入り口に対し、左の部屋を司令官乃木希典が使い、右の部屋を参謀長伊地知耕介が使っていた。いずれもその部屋で執務し、起居しているのである。 児玉は、佩剣 (ハイケン) を鳴らして乃木の部屋に入ったが、乃木はいなかった。
前線視察中ということであった。
「伊地知はいるだろう」
と、児玉は右手の部屋に入ると、伊地知はちょうど持病の神経痛がおこっていたためにベッドに長靴のままで仰臥しており、児玉が入ってくることに気づかなかった。
この不幸な対面は、そういう状況でおこなわれた。
「伊地知、いったいどうしたのだ」
と、児玉が叫んだことで、伊地知はやっとこの客に気づき、ベッドから降り、立礼をした。
しかし神経痛のためにそれ以上に立っておられず、ついイスに腰をおろしてしまった。 とこが上官である児玉は、立ったままなのである。伊地知はそれに気づき、児玉に座ってくれることを乞うた。
「おねがいします。そのイスへ」
「神経痛か」
児玉は、出鼻をくじかれたようであった。
伊地知は腰が悼む、と自分の神経痛について、二、三説明をした。
児玉が、 「いったいどうしたのだ」 と聞いたのは二〇三高地を奪還されたことや、その振るわぬ戦況についてであったが、右のようなはずみにために、伊地知は神経痛の説明をはめになった。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ