〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/24 (金)  二 〇 三 高 地 (七)

汽車は長嶺子駅に止まっている。
児玉は、中佐大庭二郎にイスをあたえ、
「状況はどうだ」
と、聞いた。その形相のすさまじさに、大庭はそのイスに腰をおろすことも出来ず、多少逆 (アガリ)上り気味で、状況報告を始めた。
児玉はじっと聞いていたが、この戊辰戦争から西南戦争以来、弾の中をくぐってきた男は、
(どうも報告が、ツルツルすべってやがる)
と、直感した。
大庭のいう状況が、いま現在の状況ではなく、数時間前の情況に違いないと思った。
大庭にとって、むりもなかった。彼は伊地知参謀から児玉源太郎の出迎えを命ぜられて、数時間前に軍司令部を出発したため、数時間前の情況しか知らなかった。
大庭はそれを言うべきであったであろう。ところが児玉の形相のすさまじさに、数時間前の情況を報告したのでくある。
「馬鹿ァ」
と、どなったのは、児玉源太郎の性格的欠陥であろう。
彼は自己演出が出来る人間ではなかった。なまで怒ったり笑ったり喜んだりする人間で、ただ天性私心の少ない人間であるため、一種の愛嬌となっていて、これによって人を無用に傷つけることは少なくなかった。
ただこの場合、大庭二郎というこの時代の陸軍にとって希少な才能に対し、心理的圧力を加え、つい無用の情況報告をさせるところへ追い込んだのはまずかったであろう。
「大庭、いくさに数時間前の情況なんてあるかァ」
と、つづけた。大庭にとって、わかりきったことであった。
大庭は小さな声で、
「わかりました。すぐいまから情況をきいて参ります」
と、一礼した。不愉快であった。
児玉は、それ以上に不愉快であった。
「通信所は、この停車場にあるのか」
と、児玉は念のため聞いた。当然、通信作戦の原則からいえば停車場に置かれるべきものであった。
ところが、停車場にはなかった。通信所は、この長嶺子駅から四キロも離れた部落に置かれている。いまから騎走して往復しても、ずいぶん時間がかかるであろう。
「なぜ停車場に通信所を置かん。一事が万事そんなことだから負けてばかりいるのだ」
と、児玉は言い、息をはずませている。
「もういい、汽車をやれ、すべて軍司令部に行ってから聞く」
と、児玉は命じた。田中国重が、窓から首を出して、合図をした。
汽車が、動き出した。大庭はイスにも腰をおろさず、立ったままで顔色を青くしている。
(気の小さい男だ)
と、児玉は思った。
地知参謀長に抑圧され、十分にその才能を発揮していないのにちがいない。
児玉には、乃木のスタッフの気分が、この一事でもわかるような気がした。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ