〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/23 (木)  二 〇 三 高 地 (五)

目がさめると、いつの間にか汽車は止まっていた。ホームで十人ばかりの人声がした。
(── 午前二時半)
と、腕時計を燈火にかざしベッドから降りようとすると、カーテンの向こうから同行の曹長のうわずった声がした。
「田中少佐殿、二〇三高地が陥ちました」
「えっ」
(本当だろうか)
と、田中は疑った。出発の時までの状況では到底陥ちそうになかったのである。田中は気を鎮めようとし、
「ここは、どこだ」
と、乗馬用の長靴をはきながら聞いた。
「金州駅であります」
「で、それは?」
「総司令部から金州駅へ電話があったのであります」
田中は、ホームへ出た。まだ少年のようにあどけない顔をした輜重 (シチョウ) 兵科の中尉が敬礼した。
この報は乃木司令部からいったん総司令部に入り、総司令部から、南下中の児玉に報せるべく兵站司令部を通じて金州駅まで電話があったのだと言う。 田中は詳報知りたかった。しかし、どうやら無理なようであった。
かってはロシア帝国の所有物だったこの鉄道は日本の兵站司令部で管理されているのだが、鉄道電話は、駅々の兵站部を通じているだけで、総司令部の者を呼び出すのは大変であるかもしれなかった。それで、陥ちない、とういうなら詳報がいるが、陥ちたとあれば、もうその事実だけで必要かつ十分であった。
田中は貨車の中に戻った。
児玉はすでに起きていて、めずらしく上衣のボタンを五つかけて、イスに座っている。
「聞いた」
と、表情をかがやかせた。
「陥ちたそうだな」
「はい、陥ちたそうであります」
「祝杯をあげるか」
「すぐ用意させます」
と、田中は曹長に命じた。
曹長は炊事の部屋へ行き、
「急いで洋食をつくるんだ」
と、命じた、最高のご馳走であった。シャンペン酒が、用意された。
と、命じた、最高のご馳走であった。シャンペン酒が、用意された。 児玉の卓上に、シャンペン用のグラスが置かれた。二つだけであった。
「みなに飲ませろ」
と、児玉は命じた。
随行の下士官と兵卒は、さまざまな容器にその酒をつぎあった。
児玉は、立ちあがった。東京なら天皇陛下万歳とか何とか一セリフあるべきであったが、児玉はよほど感動しているのか、キラキラとよく光る目でみなの顔にいちいち点を打つように見てゆき、やがて無言でのみほした。曹長がたまりかね、声をおさえつつ、万歳! と小さく叫んだ。
みな、唱和した。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ