〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/23 (木)  二 〇 三 高 地 (三)

総参謀長児玉源太郎を乗せた汽車は、南下しつつある。ときどき車輪が空転した。レールの表面が凍っているためであることは、前にも触れた。
(よく眠る人だ)
と、随行の田中国重少佐は、ときどき児玉のベッドのほうを見て思った。カーテンは半開きになっており、児玉の子供じみた小さな体がベッドの上に載っている。田中はこの夜、どうにも眠れなかった。
(全満州で、もっとも心労の多い人であえうはずであるのに)
と、田中は児玉のことを思った。げんに児玉は、日露戦争が終わると、精根が尽き果てたように死ぬのである。
(そのわりには、よく眠る)
田中は、変におかしかった。
ときどき、汽車が止まった。止まるたびに遠い砲声が聞こえはじめたのは、それだけ戦場に近づいているのであろう。
田中国重は薩摩人で、三十六歳になる。彼は薩摩人にしては、長州人のよさをよく認めているほうであった。
乃木も、児玉も長州人である。いずれも維新前後において、悲痛な個人体験を持った。
少年期の乃木を薫陶したのは、親戚の玉木文之進むという骨の髄からの古武士で、この玉木は吉田松陰の叔父であり、その師匠でもあった。
玉木は維新後、前原一誠ノ乱に関係し、自刃している。乃木の弟の正諠 (マサヨシ) はこの文之進の養子になり、玉木姓を名乗っていたが、前原ノ乱に参加し、戦死した。
児玉の場合は長州の支藩の徳山藩の出身で、家禄は百石であった。父が早世し、姉婿が家督をとっていた。
その姉婿が、藩内の佐幕派に殺された。それも凄惨としか言いようのない死で佐幕派の壮士数人が覆面して押し入り、家族の面前で抜刀し、兄を斬殺した。児玉はこのころまだ十三歳で稚児まげを結っていたが、斬殺の現場には居合わさず、その直後に帰宅し、そのあと冷静に死骸の始末その他をやってのけたという。
「昔はいろいろなことがあったよ」
と児玉が言うのみで、昔話をしたがらなかった。
当主の兄が斬殺されたあとの児玉家の窮状はすさまじいもので、藩は児玉家の哥禄をうばい、屋敷から退去することを命じた。
その後、高杉晋作のクーデターの成功によって藩論が抗幕決戦へ再転すると、藩は児玉家への処置を一変し、源太郎に家督を継がせ、家禄は二十五石ながらもともかく家名を回復させた。
乃木家も児玉家も、要するに維新前後の動乱の中でもまれ、彼等の私的事情と新国家の誕生とが一つのものになっていた。
その新国家の存亡がかかっている時、一人は総参謀長であり、一人は旅順攻略の第三軍司令官であることに、田中は維新前を知らない新世代だけに、ひどく劇的な感慨をおぼえるのである。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ