〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/23 (木)  二 〇 三 高 地 (一)

児玉は、大山の部屋へ行こうとしている。
この時期、戦史の分類で言えば、
「沙河の対陣」 といわれている時期で、大規模な歩兵戦闘はないにせよ、毎日、彼我とも、砲 兵陣地は忙しく、早暁から日没まで砲声が連続した。そういう時期であった。
この時期にも、段芝貴は陣中見舞いのために大山を訪問している。
「閣下、ご日常はいかがでございますか」
と、段芝貴が聞くと、大山は例によって丁寧に一礼し、
「総司令官と言うものはわりあい暇なものでございますから、田舎を散歩いたし ます」
と、言った。田舎というのは、郊外という意味であろう。
事実、大山はよく出かけた。しかし散歩の途中で弾が飛んで来ればどうするの であろう、と段芝貴は思ったが、大玉はかまわずにつづけた。
「そしてもっぱら、シナの白菜というものの研究をしております。あの白菜という ものは大した野菜でごわして、滋養も盛んでごわすし使い道も多うございます。 とくに漬け物にすればよろしゅうごわすが、しかしその技術がなかなかむずかし ゅうごわして・・・・・」
そいう調子であった。
旅順の惨状も、正面のクロパトキンに対する警戒も、どこ吹く風といった表情で 、ニコニコしながら語った。
(がま坊はいるだろうか)
児玉は、総司令官室への土間を歩いた。児玉は、大玉をかげでがま坊などと 言っていながら、彼の大山への尊敬というのは異常なほどで、さらに総司令官 の存在に対する絶対的尊重という点でも、みごとなくらいであった。
の存在に対する絶対的尊重という点でも、みごとなくらいであった。 ドアをたたくと、大山はいた。児玉は、彼自身陸軍大将という極官にあり、さら に大山には永年つかえていてその親密の度合いは兄弟以上であるのに、部 屋に入ると若い少尉のように初々しい不動の姿勢をとり、一礼した。
「ああ、児玉サン、クロパロトが動き始めましたか」
と、大山はイスを与えながら言った。クロパトキンのことをクロパトと大山はいつ も言う。児玉は、おかしかった。クロパトが動きだせば、旅順へ行くどころか、い まからまた屍山血河 (シザンケッカ) の大激戦を演じねばならない。
「はい、ここ十日以内は大丈夫かと思います」
「それで、旅順へゆこうとなさるのですな」
と言ったから、児玉は驚いた、彼の企図を、大山はその天才的なほどに鋭い 直観でとらえていたのである。本来の大山なら、ここで、決して先回りして知っ たかぶりをしないはずであった。この日、さすがに調子が違っていたのは、旅 順の乃木軍の様子に、大山もよほど深刻だったのであろう。
「旅順へ参ります。あとを、恐縮でありますが、よろしくおねがいします」
と、児玉は言った。

司馬遼太郎全集第二十五巻 坂の上の雲 (二)  著・司馬遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ