〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/22 (水)  広瀬武夫の最期 (六)

有馬良橘の一番船は前回と同様、探照燈にあてらてつづけて目がくらみ、ふたたび港口がどこにあるかという方向を失った。
港口からみればやや右へ舵をとりすぎ、黄金山下の海岸に近い水道へ入り、陸上に船首をむけて投錨し、爆沈した。
それを二番目の福井丸から見ていた広瀬武夫は、もうそこが港口だと思った。
操船しつつその千代丸の左側に出、錨を投じようとした。そのときロシアの駆逐艦が近づき、魚雷を発射した。それが船首に命中し、大爆発をおこして船底が裂け、たちまち浸水し、沈没しはじめた。
が、脱出作業は十分間に合った。予定のようにボートが降ろされた。作業終了とともに全員が後甲板に集合することになっていた。
みな集合した。
同行した大機関士栗田富太郎の後日譚では、広瀬が各現場を見とどけてもっともあとからやって来て、例の快活な、ややかん走った声で、
「オイオイ、みんな集まったか」
と言い、番号をとなえてみろ、と言った。すでに短艇の中にも人がいる。そこから番号をとなえると、杉野上等兵曹だけいなかった。杉野は,前甲板で働いていたはずだった。
広瀬は甲板上にいた兵員たちとともに上甲板をかけまわり、炸裂し、探照燈がそのあたりを照らし、その悽惨さはこの世のものではない。
みな後甲板にもどってきた。ふたたび、探した。広瀬が一人々々に聞いてみると、たれも作中杉野の姿を見た者がいない。ただ一人飯牟礼 (イイムレ) 仲之進という一等兵曹が、
「杉野上等兵曹はおそらく敵の水雷 (魚雷) が命中したとき、舷外に飛ばされたのではないでしょうか」
と、言った。が、それは想像である。
広瀬は、三度目の捜索に出た。ひとり前甲板の方に駈けてゆき、杉野、杉野、とよばわってゆく。その声が、栗田大機関士の耳に遠ざかって行ってひどく心細かった、という。
広瀬は、なかなか戻って来なかった。このとき船底まで探したらしい。やっと戻って来たとき,足もとに水が浸ってきた。沈没です、と栗田がたまりかねて言った。
広瀬はやむなく杉野をあきらめ、爆破用意を命じ、全員ボートに移った。爆破用意の電纜 (デンラン) は長くのばしてあって、ボートまでとりこんである。ボートは本船から離れ、四、五挺身も離れたところ、広瀬みずからがスイッチを押した。船の後部が、みごとに爆発した。
あとはボートをこぎつづけるのみである。広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、ボートの右舷最後部にすわって、ともすれば恐怖で体が硬くなろうとする隊員をはげまし、
「みな、おれの顔をみておれ、見ながら漕ぐんだ」 と、言ったりした。
探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。
そのとき、広瀬が消えた。
巨砲の砲弾が跳びぬけた時、広瀬ごと持って行ってしまったらしい。
その隣に座って舵を取っていた飯牟礼ですら気づかなかったほどであった。
広瀬の死はその後露都につたわり、彼の恋人だったアリアズナは、伯爵海軍少将の娘でありながら、その未来の夫である日本海軍の士官のために喪装をつけ、喪に服した。

『坂の上の雲 (三)』 著者・柴 遼太郎 発行・文芸春秋  ヨ リ