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2009/04/22 (水)  広瀬武夫の最期 (五)

その広瀬武夫が、閉塞船を駆って旧知のマカロフ中将のまもる旅順口にゆくというのはそれそのものがすでに数奇である。
さらに数奇なことは、マカロフは広瀬ら第二回閉塞が何隻で何日にやってくるという、日まで知っていたことであった。
「露探」
と、当時、日本でいわれた言葉がある。ロシアのスパイのことで、東京や佐世保でずいぶん活躍したらしいが、その実態は戦後もついにわからない。第二次閉塞行のことは、この種の諜報によって旅順に知られていた。
旅順にすれば、待ち伏せるだけでよい。
待ち伏せのための用意を、マカロフは抜かりなくやった。たとえば閉塞船が港口に接近することを防ぐために、逆にロシア側がしの航路とおぼしきあたりに汽船を沈めておくことである。マカロフは自ら現場を監督し、ハイラル、ハルピンという二隻の汽船を沈めさせた。さらに機雷も沈めておいた。また、閉塞防御用の駆逐隊を二隊待機させた。
日本側も前回の経験により、閉塞船の前甲板に各二門づつ機関砲をそなえつけた。これは港口付近で妨害に出てくる敵駆逐艦に対抗するためであった。 根拠地出発は、三月二十四日の予定であったが、この日は水域一帯は濃霧に閉ざされ、風浪もはげしかったため、延期した。
この日、真之は広瀬をその座乗船の福井丸にたずねている。
広瀬は、 「サルーン」 のストーヴのわきに真之をむかえた。真之はまたをあぶりつつ、
「もし敵砲火がはげしすぎれば、さっさとひっかえすほうがよいな」
と、前に言ったことをくり返した。
広瀬は、いまえはいつもそれだ。実施部隊というものは作戦かと違い、生還を期しちゃあなにもできない、成功のカギはただひとつ、どんどん往くというよりほかはないのだ、と言った。
二十六日午後六時半、閉塞船の四隻は根拠地を出発した。二十七日午前二時、老鉄山の南方に達するや、千代丸を先頭に単縦陣をつくり、福井丸、弥彦丸 (ヤヒコマル) 、米山丸の順で港口にむかって直進した。
夜霧がやや濃く、月色も霧のためにぼんやりしている。閉塞には条件がよかった。各船とも広瀬のいう 「どんどん」 行った。
旅順要塞の探照燈が先頭の千代丸を発見したのは、午前三時三十分である。旅順の空と海は閃光と騒音でつつまれた。
ロシア側の戦史はいう。
「すでにわれわれは数日前からこの敵襲を予知していた。このため哨戒艦二隻が、陸上砲台と緊密な連絡を保ちつつ外洋を監視していたが、午前二時十分 (日本側と時間が違う) 砲台の探照燈は、暗い洋上に波をたてて接近してくる船影をとらえた。先頭は千代丸である。
そのあとに一定の距離をおいて他の三隻が単縦陣で進んでくる。敵は闇中ながら、よくその船の位置を測定し、正確に進行方向を維持してくる。やがてわが砲台および各艦はこれに対し猛烈な砲火を注いだ。しかしあまり敵に大きな損害を与えるにはいたらないらしく、各船は依然として同一針路を保持しつつ進んでくる」

『坂の上の雲 (三)』 著者・柴 遼太郎 発行・文芸春秋  ヨ リ