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2009/04/22 (水)  広瀬武夫の最期 (四)

第一回閉塞はほぼ失敗に終わったが、兵員の損害は意外なほどに軽微であった。東郷はこのことに気をよくした。
「さらに続けたいとおもいます」
という島村参謀長を通しての有馬良橘の願いを、かれは容れた。
大本営も、このことに積極的になった。さっそく閉塞船の準備をした。汽船はくず船だから、金はあまりかからない。そこへ石をつめたりセメントを入れたり爆装したりするほうにわりあい金がかかった。
第二回は、四隻えらばれた。
指揮官は、前回と同じである。下士官以下は一度行った者は二度とやらせないというのが本則で、将校は何度でもゆく。総指揮官は有馬良橘。それに広瀬武夫、斎藤七五郎、正木義太である。
「敵も、今度は準備するだろう」
と、真之は、三笠にたずねてきた広瀬武夫にいった。
第一回のような、いわば敵の不意をつくというようなことにはなるまい。
「そのうえ、そろそろマカロフ中将が旅順に着任しているはずだ。旅順の士気は一変するにちがいない」
真之は、いった。
ステパン・オーシヴィッチ・マカロフ中将は、ロシア海軍の至宝といっていい。
彼は正真正銘のスラヴ人で、しかもロシア海軍にとって例外的な存在であることは、貴族の出身でなく、平民の出身であることだった。帆船時代の水夫 (セーラー) からたたきわげ、しかもたたきあげにみられるような単純な実務派という人でなく、ヨーロッパのすべての国の海軍を見まわしても、マカロフほどの理論家はいない。実際から理論を抽出しさらに実際にもどして練り直し、そういう作業を繰り返して体系化するというのがマカロフ理論で、かれの戦術論は世界の名著でであり、真之も一時期、熟読してことがある。
ついでながらマカロフの著述は、海軍の専門分野だけでなく、海洋学や造船学の分野にまでおよんでおり、その点からいえばロシアがもつ最も有能な学者といっていい。
しかもこの学者はおそろしく筋肉質で、若いころはマストに登るのが誰よりも早く、かまたき仕事から司令長官まで一人でつとめよといわれればやってのける人物であり、そういうことや、平民出身ということなどもあって、下士官や水平のかれに対する人気は圧倒的であった。
かれが旅順へ着任したのは、三月八日である。前任のスタルクと交代した。 マカロフはきわめて積極的な提督で、かれの着任とともに旅順艦隊の士気は見違えるほどにあがった。
広瀬は、マカロフうぃ知っている。マカロフがクロンシュタット鎮守府の長官をしていた頃広瀬はたずねて行って会っているのである。
「精気にあふれたような老人だった」
と、広瀬は真之に言った。

『坂の上の雲 (三)』 著者・柴 遼太郎 発行・文芸春秋  ヨ リ