〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/04/22 (水)  広瀬武夫の最期 (三)

閉塞隊の五隻は、二月二十三日の薄暮、円島の東南方二十海里の洋上に集まった。ここを出発点とし、諸隊がそれぞれの航路をとって旅順に行くことになる。
る。 連合艦隊もかれらを見送るためにこの洋上に集結した。いよいよ出発というとき、三笠の軍楽隊が奏楽し、各艦では乗組員が登舷原礼式をもって万歳を三唱した。
護衛のための第一駆逐隊が五隻の前衛になって進み、水雷艇千鳥以下四隻の第十四艇隊はそれに続いた。
陽が落ち、上弦の月がかかった。風浪のつよかった前日に比べると、海は凪いでいる。総指揮官有馬良橘中佐の乗る天津丸を先頭に、広瀬の報国丸、仁川丸、武陽丸、武州丸と続く。
広瀬は、夕食は桟橋でとった。すでに秘密海図その他のものは焼いてしまっており、夕食後はすることがない。
「どうだろう、栗太君」
と、広瀬は大機関士の栗田富太郎 (のち海軍機関少将) をかえりみていった。
「なにか記念になるものを書き残したいのだが」
といったが、この本当の理由は広瀬にしかわからない。広瀬のいうのは、船橋 (ブリッジ) に大きな幕をはりまわし、そこへペンキでなにか書いておきたいというのである。
(なにを記念に書き残すことがあるのだろう)
と栗田は不審に思ったが、それを手伝った。
やがて広瀬が幕に大きく書いたのは、なんとロシア文字であった。
それが、船橋にはりめぐらされた。この船が港口に沈んだとき、おそらく船橋だけは海面上に出る。ロシア人はそれを読むであろう。
「なんと、お書きになりました」 と、栗田機関士がきいた。
栗田は後年まで語ったが、広瀬のそのときの表情は、快活ななかにも古妙なはにかみがあったという。
原文は残っていないが、広瀬がこういう意味だと栗田に語ったところでは、
「余は日本の広瀬武夫なり。いま来りて貴軍港を閉塞す。ただしこれはその第一回たるのみ。今後、幾たびも来るやも知れず」
と、いう。
この報国丸が沈んでから、ロシア側はこれを読んだ。
それについて、前記ブーブノフ海軍大佐の記録では、
「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君、請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここにきたる。さらにまた幾回か来らんとす」
と書かれていた。
広瀬武夫がわざわざこれを書いたのは、旅順港内に自分のペテルブルグ時代の知人が多くいることを想定してであった。たとえばポリス・ヴィルキツキー少尉だいる。さらにはこの字幕がペテルブルグにつたわることによって、かれの、アリアズナに最後の挨拶を送ろうとするものであった。

『坂の上の雲 (三)』 著者・柴 遼太郎 発行・文芸春秋  ヨ リ