〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/02/05 (木)  杉浦 重剛 (スギウラ ジュウゴウ) (1855〜1924)

重剛は安政二年 (1855) 三月三日近江国 (オオミノクニ) (現滋賀県) の西部、大津と瀬田の中程にある城下町膳所 (ゼゼ) に、本多藩の儒者杉浦蕉亭 (ショウテイ) の長子として生まれ、幼名を譲次郎 (ジョウジロウ) といい、元服して重剛と改め又号を天台といった。
幼少より神童とうたわれ、六歳で藩学遵義堂の講師に任ぜられ藩主から二人扶持 (ニニンブチ) を賜った。
この遵義堂での勉学中、儒者高橋坦堂 (タカハシ タンドウ) から受けた薫陶は彼の生涯に大きな影響を与えている。
明治三年 (1870) 十月、時の政府は東京帝国大学の前身である大学南校 (現在の東京大学) を開校、重剛も膳所藩から選ばれて理学部へ入学し間もなく小村寿太郎、宇都宮太郎、千頭清臣 (チガシラ キヨオミ) (後に重剛の妻となった楠猪 (クスイの実兄)) らと国家を論じ合うようになった。
卒業後明治九年夏、第二回留学生として渡英、マンチェスターのオーウェン大学、ロスコー博士のもとで五ヵ年を過ごして帰国した。
明治十五年、二十八歳の若さで一高の前身である東京大学予備門長に抜擢され、教育家としての第一歩をふみ出した。然し当時の西洋文明万能の教育方針とは意見が合わず、欧化思想に対抗して小石川久堅町 (現文京区) の自宅に称好塾 (ショウコウジュク) を開いて青年の教育に力をそそぎ、十八年には予備門長を辞し、井上円了 (イノウエ エンリョウ) 、三宅雪嶺 (ミヤケ セツレイ) 等と雑誌 「日本人」 を出して国粋主義を主張したり、外交問題で政府の弱腰をついて谷干城 (タニ カンジョウ) 、三浦梧楼 (ミウラ ゴロウ) らと反対運動などを起こした。
明治二十五年七月日本中学校を創立 (現在世田谷区松原に在る日本学園の前身で、明治十八年神田錦町に東京英語学校として誕生、其の後神田大火に類焼し、半蔵門外の麹町山元町に再建 「日本中学校」 と改称したもの) して初代校長となったが、この学校は称好塾とともに、彼がその生涯の精魂を傾けたものといえる。
この学校で学んだ人々の中には、芳沢謙吉、荒木貞夫、吉田茂、牛島謹爾、小坂順造、久留島秀三郎、佐々木弥市、松浦寅三郎、太田政弘、斉藤博、白島敏夫、大隈信常、小川琢治 (湯川博士の父) 、鈴木寅雄 (豹軒) 、佐々木信綱、杉靖三郎、横山大観、小西得郎、吉村公三郎 等々をはじめ、文字通り各界の大物著名人が名を連ねていることも偶然ではない。
又同校が吟詠をクラブ活動としてでなく、教科の一つとして取り入れたことも特異なことである。
彼はこの間文部省参事官、国学院学監などを経て、大正三年 (1914) 四月、東宮御学問所 (トウグウゴガクモンジョ) (総裁元帥東郷平八郎) が設けられる際に、選ばれて御用係に就任。主として帝王倫理学をご進講し、続いて堂七年五月より久邇宮良子 (クニノミヤナガコ) 女王殿下にも同じく帝王倫理学をご進講することとなった。
重剛の赤誠あふれるご進講も東宮御学問所が大正十年二月に終了。同十二年十二月には良子女王殿下へのご進講の終了後、急に病床にふし、大正十三年 (1924) 二月十三日に遂に帰らぬ客となった。
今もなお 「日本学園」 では二月十三日に 「重剛先生景仰会」 が催されていることを付記する。
著書には 「日本精神」 「日本教育原論」 などがある。

社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十一年一月号掲載 ヨ リ