紀貫之は武内宿弥 (タケノウチノスクネ) (日本書紀によると景行、成務、仲哀、応神)と五代の天皇に仕え、また神功皇后に従がって三韓征伐を行った大臣)
の後裔に当り祖父は中納言長谷雄、父は望行と云い、ともに歌人として知られている。
貫之も醍醐、朱雀の両朝に仕え 「古今和歌集」 の代表的歌人として知られ、また能書家としても名をなしていた。
生年は不詳であるが、道真の晩年に当る延喜年中に御書所預 (ミショドコロアヅカリ)
となり、凡河内躬恒 (オオシコウチノミツネ) 、紀友則
(貫之のいとこ) 壬生忠岑 (ミブノタダミネ) らと 「古今和歌集」
の編纂にあたり、万葉以後の古歌と、当時の歌と千百首を採録し、延喜五年 (905)
に二十巻を完成した。この集中に彼の歌は短歌九十九首、長歌、旋頭歌各一首が入れられてある。このあと醍醐天皇の勅を奉じて
「新撰和歌集」 の撰にかかったが、完成は天皇の奉ぜられた後、貫之の晩年となった。
「古今和歌集」 の撰後、越前権少掾 (エチゼンゴンノショウジョウ) 、内膳、典膳、少内紀を歴任し大内紀に転じ、加賀、美濃介となった。延長年中には大監物右京亮
(ウキョウノスケ) となり、延長八年 (920)
に土佐守に任ぜられた。
かな書き日記の最初といわれる 「土佐日記」 は、貫之が土佐守としての任期が終わり、京への帰途についた承平四年 (934)
の十二月二十一日から翌年の二月十六日に帰京するまでの旅日記である。
天慶年中に玄蕃頭 (ゲンバノカミ) となり、天慶八年
(945) には木工権頭 (モクノゴンノカミ) にすすみ従五位上に叙せられたがこの年に歿した。
貫之の、語句を洗練し、流麗な声調と言葉の技巧を重んじた作品は、古今集中の百一首をはじめの勅撰集、貫之集に多く入れて伝えられ、特に古今和歌集は、貫之を知らずには語ることは出来ない、とまで云われて後世歌仙として尊敬された。
また、和歌以外の作品としては、土佐日記のほか主なものに、古今集序、大井川和歌序などがある。
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