〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/02/05 (木)  石川 啄木 (イシカワ タクボク) (1885〜1912)

歌人、詩人、明治十八年 (1885) 十月二十八日、岩手県岩手郡玉山日戸 (ヒノト) に生まれ、翌年父一禎が渋民の宝徳寺住職となったため一家は移住し啄木は子の寺で成長した。
本名一 (ハジメ) 、啄木 (十九歳の時与謝野鉄幹に乞うて得た) は号である。
幼き頃より人を驚かしたほどの秀才で、渋民小学校、森岡高等小学校を首席で通した。彼が高等小学校一年の時、四年生に金田一京助がいた (以後彼は歿する迄この先輩の好意を受く)
三十一年、県立森岡中学校に入学、二年の時初恋の人堀合節子 (ホリアイ セツコ) (後年の節子夫人) と知り合った。
三十三年、与謝野鉄幹の歌風に感化を受け、更に金田一京助より借りた 「明星」 を見て 「新詩社」 に入ると共に森岡中学校の回覧雑誌 「爾伎多麻 (ニギタマ) 」 を編集し 「翠江」 と号して新詩社風の短歌を作った。 然し彼はこの頃より物思いに耽り学業も怠り勝ちとなった。
三十五年、中学校五年生の秋、志を立てて上京、姉崎潮風 (アネザキ チョウフウ) 、上田敏、与謝野鉄幹、若山牧水をはじめ、多くの歌人や詩人と交わり、前途ある若き詩人として注目されたが、生活苦と病のため翌年二月には帰郷して療養する身となった。
三十七年十一月再び上京、翌春には小田島書房より処女詩集 「あこがれ」 を出版して天才啄木の名を高くした。
この年の六月に結婚、寺を出た両親と妹、一家五人で盛岡に出て家庭を営む様になった。現象的に見ればこの時は啄木の生涯中最も幸福な時であったと云えるかも知れない。一家の生活の中心となった彼は生活のために三十九年郷里の小学校の代用教員となった。
赤貧洗うが如く、米代も切手代もなく、詩興が湧いても書くに紙のないこともあったという。
四十年五月には単身北海道に渡り、函館、小樽、釧路、札幌等の各地を新聞記者や雇などをしながら転々と歩くこと一年、偶々起こった自然主義運動に促されて小説家を志して上京した。幾篇かの小説を書いたが思う様には採用されず、それよりもむしろ短歌によって認められた。
四十二年三月、朝日新聞社の校正係となり、九月には歌壇の選をする様になった。次いで十二月には東雲堂から歌集 「一握の砂」 を出し、歌人としての地位を得た。
四十五年四月十三日、第二の歌集 「悲しき玩具」 の出版を前にして病状悪化、金田一京助、若山牧水、土岐善麿等に見守られながら小石川区 (現文京区) 久堅町の借家で歿した。
「悲しき玩具」 は没後の六月、友人土岐善麿等によって東雲堂から出版された遺歌集である。
独自の三行書きの詩型式と生活感情に根を下ろした彼の歌風は大正以後の歌壇に大きな影響を与えた。
啄木全集十六巻がある。

社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年十一月号掲載 ヨ リ