〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/01/24 (土) 貞心尼略伝 (二)

天保九年、四十一歳の時、弟子の孝順尼が入門。
天保十二年四十四歳、再び柏崎へうつり、洞雲寺の泰禅和尚について正式に得度し、釈迦堂の庵主になりました。狭いながらも弟子の 孝順尼とむつまじく暮していましたが、長岡へ出かけていた留守中に柏崎大火がおこり、嘉永四年、五十四歳の時、あとかたもなく焼け落ちてしまいました。
やむなく、一時観音堂に身をよせていましたが、外護者山田靜里たのはからいで、真光寺の境内に庵が作られ、十月頃ここへ移ります。庵は山田靜里の案により 「不求庵」 と名づけられました。 「求めずしておのずから得る」 の意です。貞心尼はさっそくお礼の茶会や歌会を開いたりしましたが、結局、ここが終生のすみかとなるのでした。
安政六年、六十八歳の時、前橋の竜海院蔵雲和尚が訪ねてき、良寛の詩集を刊行する気持ちを伝えました。蔵雲和尚は信州に生まれた人ですが、一時、柏崎在吉ヰの善法寺に住んでいたことがあり、その頃から良寛の詩や書にひかれていたものと思われます。
貞心尼は蔵雲和尚を助けて良寛の詩の収集につとめ、おしみない協力をします。かくして翌々慶応三年 (1867) 、江戸の尚古堂から 「良寛道人遺稿」 が刊行されました。当時は未だ活字などありませんから、木版本です。良寛の没後三十七年めにして、わが国最初の良寛詩集が刊行されたのですから、 「蓮の露」 とともに、画期的な大偉業と申せましょう。
この後、貞心尼は次第に体力が衰えてゆき、世話になった人たちに次々と形見の品を分け与えました。そして弟子の孝順尼と智譲尼には、
「わたしが死んだらオカラ雑炊をたくさん煮て、町中の犬たちに腹いっぱい食べさせて下され」
と、遺言し、また

来るに似て かへるに似たり 沖つ波 たちゐは風の 吹くに任せて
という辞世の歌を残して、明治五年 (1872) 二月十一日、不求庵で七十五歳の生涯をとじました。
お墓は洞雲寺裏山の墓地にたてられています。
『良寛と貞心尼』 加藤僖一著 発行所・考古堂書店