〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/01/24 (土) 貞心尼略伝 (一)

貞心尼は寛政十年 (1798) 、長岡藩士奥村五兵衛の二女に生まれ、幼名をマスといいました。同家は現在新潟長岡市で、紳士服、婦人服等の製造卸を営む奥村商店へ続いています。
十七歳の時、乞われて北魚沼郡小出島竜光村 (現堀之内町) の医師、関長温のもとへ嫁ぎました。
幼い頃から非常に読書好きで、特に古今集を愛読していたといわれています。結婚生活は幸福そのものでしたが、どうしても子宝にめぐめれぬうち、わずか五年後、夫は病死してしまいます。
その為マスは長岡の実家へ戻ります。従来の説では、このように夫と死別したことになっていますが、六月、与板町徳昌寺における県良寛会の折り、田村甚三郎氏から、関家の過去帳には、関長温は文政十年二月十四日の死亡と記されている、という報告がなされました。
このことは私も数年前、堀之内町文化財審議委員会の宮温氏からおききして知っていました。そうすると関長温氏はマスと結婚後十三年間生存していたことになり、死別ではなく、生別離婚だったことになります。
私自身この件については何も調査していませんから、いずれとも決しかねますが、夫に死別して尼僧生活に入ったとする説の方が、どうも自然のように思われます。この点は今後の専門家の研究を待つほかはありません。
文政三年、二十三歳のマスは、下宿村新出 (現柏崎市) の閻王閣という尼寺で、眠竜尼・心竜尼姉妹の弟子になります。この時、眠竜尼から 「貞心尼」 という名をもらいました。
貞心尼は熱心に曹洞宗の教えを学び、修業に励みなした。五年たった文政八年の秋、久しぶりに実家をたずね、年老いた父親を見舞いましたが、これが最後の別れとなり、翌九年正月一日、父は永眠してしまいます。
眠竜尼はかねがね、すでに一人前の修業を積んだ貞心尼を、実家に近いところで独立させてやりたいと考えていましたが、父の死が一つのきっかけとなり、文政九年二十九歳の春、貞心尼は現長岡市郊外、福島村の閻魔堂に移りました。
そしてこの年の秋頃、和島村の木村家で、良寛と主体面のシーンを迎えるのです。その最初の出会いから、次第に清らかな愛情の高まりを見せる交流、そして良寛の示寂を見とるまでの様子は、本書に収録した 「蓮の露」 に、何よりも強烈に綴られているところです。
折角良寛とのすばらしい出会いによって、灼熱の思いを体験したにもかかわらず、これまたわずか五年にして、天保二年 (1831) 一月六日、良寛は遷化してしまいます。お互いに生き死にの境を離れた僧籍の身であるとはいえ、その悲しみはあまりに深く、師の形見にもと、良寛の歌をあちこちたずね歩いて集め、また良寛とよにかわした歌をも書きそえて、 「蓮の露」 一巻を完成させました。天保六年五月、貞心尼三十八歳、良寛没後四年目の快挙でした。
これはわが国最初の良寛歌集であり、すべて貞心尼の自筆で書かれた貴重なものです。原本は中村文庫に伝えられ、現在は柏崎市立図書館の蔵、柏崎市文化財に指定されています。

『良寛と貞心尼』 加藤僖一著 発行所・考古堂書店