〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/23 (木)  作者略歴 ・西郷 隆盛 (サイゴウ タカモリ) (1827〜1877)

幕末から明治維新にかけての政治家。
文政十年 (1827) 十二月七日、薩摩藩小姓組の西郷吉兵衛の長男として鹿児島城下加治屋町に生る。
幼名を小吉といい後に吉之介また吉兵衛、吉之助と称した。長じて隆永 (タカナガ) その後隆盛といい、時には大島三右衛門、菊池源吾と称したこともあり南洲はその号である。
十八歳で郡方書役に任命され、その後、藩主島津斉彬に見出されて安政元年 (1854) 中小姓で江戸詰となり、次いで庭方役となった。
安政五年 (1858) には外交問題をめぐって幕府内に対立が生じ、同時に将軍後嗣問題が表面化した。保守派は紀州藩の徳川慶福 (ヨシトミ) を支持し、此れに対抗して薩摩藩は一橋慶喜 (ヨシノブ) を擁立したが井伊直弼の大老就任で改革派は敗れ、同年九月には安政の大獄が始まった。
西郷も幕吏の追求を受ける身となり、滞在中の京都から友人の僧月照をともなって薩摩に帰藩した。然し、斉彬歿した後の薩摩藩は幕府の譴責を恐れ、西郷らは此処でも窮地に陥ってしまって、二人は十一月十六日夜鹿児島湾に身を投じ、彼だけは蘇生して捕らえられ、大島に流された。
後許されたが時の藩主島津久光の怒りに触れ、再び沖永良部島 (沖縄島の北にあり) に流された。
赦免されて帰藩後は京に上り文久の政変 (文久三年) に参加し、第一回の長州征伐 (1864) には幕藩連合軍の首脳として活躍した。
翌年長州再征伐には幕府の滅亡を予期して薩摩藩の出兵を拒否したのみか、この後は討幕運動を積極的に推進させ薩長連合の締結に関与した。
戊辰の役 (1868) には征討大総督参謀として討幕連合軍を指揮し、此の時、勝安房守との会見によって江戸無血開城を成功させ、更に東北に転戦した。
明治の新政権樹立後は帰藩、薩摩の藩政改革に参画、明治四年 (1871) 召されて上京し、初の陸軍大将となり参議に就任した。
然し、翌五年にはかねてより彼が唱えていた朝鮮出兵をめぐって征韓論が起こり、これに反対する大久保利通 (オオクボトシミチ) 木戸孝允 (キゴコウイン) らと争ったが敗れて下野、郷里に私学校をつくり、子弟の教育につとめていた。
明治十年一月、西郷は時の政府に不満を持つ私学校生徒らに擁されて総数三万を以って挙兵した (西南の役) 。
反乱軍は一ヵ月後には熊本城を包囲し、これを手中に収めたかに見えたが衆寡敵せず、敗北を続けて同年九月二十四日、彼は故郷の城山で自刃して果てた。時に五十一歳、歿後特旨を以って正三位を追贈せられた。

社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年十月号掲載 ヨ リ