〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/23 (木)  作者略歴 ・徳川 光圀 (トクガワ ミツクニ) (1623〜1700)

光圀は寛永五年 (1628) 常陸国水戸 (現茨城県水戸市) に生まれ、幼名を千代松と呼んだ。字は子竜 (シリョウ) 常山人、梅里、西山隠士などと号した。
先祖は源氏より出で、義家の孫新田義重の後裔で、家康の孫に当り頼房の第三子である。
尾張家、紀伊家と共に徳川御三家と云われた水戸家二代目の藩主で、儒学、特に朱子学を尊重し、徳を以って民を治め、名君のきこえ高く、後世 「水戸の黄門」 といって語り伝えられている。
寛永十年 (1633) 将軍家光の命で、水戸家の嗣子と定められ、寛文元年 (1661) 相続したが、かねてより兄を越えて嗣子となったことを心苦しく思っていた光圀は、長兄頼重 (ヨリシゲ) (高松藩主) の子綱方 (ツナカタ) を嗣子と定め、綱方の早世後は其の弟綱条 (ツナエダ) を嗣子とし、我が子頼常 (ヨリツネ) を頼重の養子とした。
歴史を編修することを志した彼は、明暦三年 (1657) 江戸駒込の下屋敷に史館を設けて彰考館と名づけ学者を集めて 「大日本史」 の編纂を始めた。
この仕事は水戸家代々に受け継がれ 「大日本史」 をはじめ 「礼儀類典」 「扶桑拾葉」 「参考保元平治物語」 「参考源平盛衰記」 「参考太平記」 「諸家系図纂」 「常陸国誌」 「新編鎌倉誌」 などの多数が編纂された。又、この事業を中心として 「水戸学」 が発達し、後世の尊皇思想に影響を与えた。
寛文五年 (1665) には明の儒学者朱舜水 (シュシュンスイ) を、亡命中の長崎より迎えてこれに師事した。このことも、水戸学の発展と王朝思想を高めることに大きな影響を与えている。
光圀は特に大義名分を明らかにすることに努め、元禄五年 (1692) には湊川に楠正成の碑を建て、自ら揮毫して 「嗚呼中心楠氏子之墓」 と題した。
元禄三年 (1690) 家督を綱条に譲って後は常陸太田の近郊、先祖の墓所近く西山荘に隠居し、自ら梅里先生と称し西山隠士と号して雪月花に親しみ、詩をうたう風流にまかせての生活に入るが、かたわら、おりおり領内を歩き民情を視察し、綱条への進言も怠らなかった。
元禄十三年 (1700) 七十三歳にて多くの事蹟と逸話を残して歿したが死後義公とおくりなされた。 彼の詩文集には 「常山集」 二十五巻と 「常山詠草」 五巻とがある。
社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年九月号掲載 ヨ リ