〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/23 (木) 作者略歴 ・ 大塩 平八郎 (オオシオ ヘイハチロウ) (1793〜1837)

平八郎は寛政五年 (1793) 二月二十二日大阪天満に生る。
代々天満与力であったのと、七歳の時に父平八郎敬高 (ヨシタカ) が亡くなったので、文包三年 (1806) 十三歳の時大阪天満与力見習として出仕することになった。
当時は幕府の政治は乱れ、武士は堕落し、農民は窮乏していた。一方奸商の往行は目に余るものがあった。
こうした中で彼は深く自らを戒め、学は陽明学を、槍術は佐分利流を、そして中島流の砲術を学ぶ等、ひたすら文武に道に励んだ。
文政四年 (1821) 高井山城守が東町奉行の任につくと平八郎は抜擢されて吟味役となった。 京都の八坂(ヤサカ) に豊国神 (トヨクニジン) と云う祈祷所を設け、豊田貢 (ミツギ) と云う女性が中心となって怪しげな邪宗を広めていたが文政十年平八郎の指揮によって、京及び阪神地方に迄広まっていた邪教はことごとく追放された。
又同じ頃、役人に取入り、無頼の徒と結託して、良民を苦しめ私服を肥やす奸商を懲らしめる等の彼の業績は、奉行からの信頼を更に深め、市民からの感謝と尊敬の念は高まるばかりとなった。
然し平八郎はいつの頃からか肺を病む身となっていた。天保元年 (1830) 山城守が老齢のため辞職願いを出した際、彼も惜しまれつつ役をしりぞき、洗心洞 (センシンドウ) にかくれ塾生の指導と著述に精魂を傾ける身となった。
数年来の不作に続いて、冷害と全国的大暴風によって、天保七年には米はおろか麦も稗も育たぬ大飢饉となった。
平八郎は家財をはじめ大切な書籍まで売り払って市民の救済につとめる一方、大阪城代に対して非常米の放出を願い出たが遂に許されなかった。 万策尽きた彼は、天保八年二月十八日、同士や門下生を率いて市民救済のために兵を挙げた。
然し衆寡敵せず戦は敗れ、三月二十七日平八郎は養子格之助と共に自刃して果てた。この事件は天保改革の直接の原因となった。
平八郎の残した作品の中には、
せん しん どう さつ
ほん だい がく かつ もく
ほう のう しょ せき しゅう ばつ
じゅ もん くう きょ しゅう
ぞう こう きょう ちゅう
などがある。
社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年八月号掲載 ヨ リ