〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/23 (木) 作者略歴 ・ 陶 淵明 (トウ エンメイ) (365〜427)

淵明は晋の名将陶侃 (トウカン) の曾孫にあたり、哀帝の興寧三年 (365) 、すなわち晋王朝が南に追われ、失われた北方領土の奪回の為に北伐の戦が繰返されていたころ、(我が国では仁徳天皇の五十四年に当たる) 揚子江の中流、廬山 (ロザン) に近い潯陽 (ジンヨウ) の柴桑 (サイソウ) (現江西省九江付近) に生まれ、名は淵明 (後に宋の時代になって潜と改名) 字は元亮 (ゲンリョウ) と云った。
幼少より六経 (リクケイ) に親しみ、博学群を抜き」、杜甫や李白より三百年余り以前の中国の代表的詩人である。
二十九歳の時故郷を出て江州の祭酒 (学政を司る長官) などを経て四十一歳の秋彭泡沢令 (ホウタクレイ) (郷里に近い彭泡沢の県令) を止める迄、幾度か官吏としての生活を送ったが、俗塵を嫌う淵明にはいずれも長くは続かなかった。
宋書によると彭泡沢令をやめた時 「我能く五斗米 (県令の俸給) の為に腰を折りて郷里の小役人に向はんや」 と歎じたと伝えられる。
その後は再び故郷での田園生活に入った。又五十四歳のと頃、宋の劉裕 (リュウユウ) に 著作佐朗 (朝廷の著作を掌る官) として召されたが 「吾先帝晋の臣なるを以って肯て宋に仕えず」 と辞退し、詩酒を以って楽しみとし、自らを慰めていた。
(リョウ) の昭明太子は、淵明の詩には 「篇々酒あり」 と言ったと伝えられ、事実酒を飲みつつの詩も少なくないが、彼の飲んだ酒の味は、花を愛でつつの美味い酒とは違い、自分の抱いている理想の信念が世間から理解されぬばかりか、むしろ反対の方向にばかり行ってしまう事に対する憤満やわだかまり、それらのものを癒すためのものであったと云われ、加えて貧しさの故に飲んだ苦酒でもあったと云う。
故郷を深く愛し、田園の生活を楽しみ、家族ともども農耕に従事しつつ元嘉四年 (427) 六十三歳で其の生涯を閉じる迄、ほとんど潯陽を離れることはなかった。
淵明の詩は、彼が生涯を通じて最も愛した田園、其の田園での生活の詩が多い。又諷刺詩や彼の理想を描いた作品のあるがいくつかの例外を除いては、殆どが五言詩である。
彼は又吾が庵の門に五柳樹を植え、自ら五柳先生と称した伝記も作っている。
歿後人々は彼の清潔な一生をたたえて、靖節先生とおくりなしたという。
社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年七月号掲載 ヨ リ