〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/04 (土) 金色夜叉 ・ 第八章 F

彼は危 (アヤフ) きを拯 (スク) はんとする如く犇 (ヒシ) と宮に取着 (トリツ) きて、匂滴 (ニホヒコボ) るる頸元 (エリモト) に沸ゆる涙を濺ぎつつ、蘆の枯葉の風に揉 (モマ) るるやうに身を顫 (フルハ) せり。宮も離れじと抱緊 (ダキシ) めて諸共に顫 (フルヒ) ひつつ、貫一が臂 (ヒジ) を咬みて咽泣 (ムセビナキ) にけり。
嗚呼、私は如何 (ドウ) したら可からう!若し私が彼方 (アッチ) へ嫁ったら、貫一さんは如何するの、それを聞かして下さいな。」
木を裂く如く貫一は宮を突き放して、
「それじゃ斷然 (イヨイヨ) お前は嫁く気だね!是迄に僕が言っても聽いてくれんのだね。ちぇっつ、膓 (ハラワタ) の腐った女!姦婦!」
其聲と與に貫一は脚を擧げて宮の弱腰 (ヨワゴシ) を礑 (ハタ) と蹴たり。地響きして横様に轉びしが、なかなか聲をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得爲ず弱々と僵 (タフ) れたるを、なほ憎さげに見遣 (ミヤ) りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心變をしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂 (キョクハッキョウ) して、大事の一生を誤まって了 (シマ) ふのだ。 學問も何ももう廢 (ヤメ) だ。此の恨の爲に貫一は生きながら悪魔になって、貴樣のやうな畜生の肉を啖 (クラ) って遣る覺悟だ。富山の令・・・・・令夫・・・・・令夫人!もう一生お目には掛らんから、其顔を擧げて、眞人間で居る内の貫一の面を好く見て置かないかい。長々の御恩に預かった翁さん姨さんには人目會って段々の御禮を申し上げなければ濟まんのでありますけれど、仔細あって貫一は此儘 (コノママ) 長の御暇を致しますから、随分お達者で御機嫌よろしう・・・・・。
宮さん、お前から好く然 (サ) う 言っておくれよ、若し貫一は如何したとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の濱邊から行方知れずになって了 (シマ) ったと・・・・・。」
宮は矢庭に蹶起 (ハネオ) きて、立たんと爲 (ス) れば脚の痛 (イタミ) に脆 (モロ) くも倒れて効 (カヒ) 無きを、漸く這 (ハヒ) 寄りて貫一の脚に縋付 (スガリツ) き、聲と涙とを爭ひて、
「貫一さん、ま・・・・・ま・・・・・待って下さい。貴方これから何・・・・・何處へ行くのよ。」
貫一は有繋 (サスガ) に驚けり、宮が衣 (キヌ) の披 (ハダ) けて雪可羞 (ユキハヅカ) しく露 (アラハ) せる膝頭 (ヒザガジラ) は、夥 (タビタビ) しく血に染みて顫 (フル) ふなりき。
「や、怪我をしたか。」
寄らんとするを宮は支へて、
「ねえ、這麼 (コンナ) 事は管 (カマ) はないから、貴方は何處へ行くのよ。話があるから、今夜は一所に歸って下さい、よう、貫一さん、後生だから。」
「話が有れば此 (ココ) で聞かう。」
「此じゃ私は可厭 (イヤ) よ。」
「ええ、何の話が有るものか。さあ此を放さないか。」
「私は放さない。」
「剛情張ると蹴飛 (ケトバ) すぞ。」
「蹴られても可いわ。」
貫一は力を極 (キハ) めて振斷 (フリチギ) れば、宮は無残に伏轉 (フシコロ) びぬ。
「貫一さん。」
貫一ははや幾間 (イクケン) を急行 (イソギユ) きたり。宮は見るより必死と起上 (タチアガ) りて、脚の傷 (イタミ) に幾度か仆 (タフ) れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、しれぢゃもう留めないから、もう一度、もう一度・・・・・私は言遺 (イヒノコ) した事がある。」
遂に倒れし宮は再び起つべき力も失せて、唯聲を頼に彼の名を呼ぶのみ。漸く朧 (オボロ) になれる貫一が影の一散 (イッサン) に岡を登るが見えぬ。宮は身悶 (ミモダヘ) して猶呼び續けつ。 旋 (ヤガ) て其の黒き影の岡の頂きに立てるは、此方を目茂 (マモ) れるならんと、宮は聲の限りに呼べば、男の聲も遥に來りぬ。
「宮さん!」
「あ、あ、あ、貫一さん」
首を延べて見回せども、目を見張りて眺むれども、聲せし後は黒き影の掻消す如く失せて、其かと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び戀しき貫一の名を呼びたりき。

著・尾崎 紅葉  刊行・日本近代文学館 総発売元・ほ る ぷ