〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/03 (金) 金色夜叉 ・ 第八章 D

貫一の眼 (マナコ) は其全身の力を聚 (アツ) めて、思惱 (オモヒナヤ) める宮が顔を鋭く打目茂 (ウチマモ) れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答えはあらざりき。貫一は空を仰ぎ太息 (タメイキ) したり。
「宜しい、もう宜しい。お前の心は能く解った。」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按 (ウチアン) じつつも、彼は亂るる胸を寛 (ユル) うせんが爲に、強ひて目を放ちて海の方 (カタ) を眺めたりしが、仍得堪へずやありけん、又言はんとして顧 (カヘリミ) れば、宮は傍 (カタハラ) に在らずして、六七間後なる波打際に面 (オモテ) を掩 (オホ) ひて泣けるなり。
可惱 (ナヤマ) しげなる姿の月に照され、風に吹かれて、あはれ消えもせぬべく立ち迷へるに、E々 (ベウベウ) たる海の端の白く頽 (クズ) れて波の打寄せたる、艶 (エン) に哀 (アワレ) を盡 (ツク) せる風情に、貫一は憤 (イカリ) をも恨みをも忘れて、少時 (シバシ)(エ) を看る如き心地もしつ。更に、此美しき人も今は我物にならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ 夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭を低 (タ) れて足の向ふままに汀 (ミギハ) の方へ進行 (ススミユ) きしが、泣く泣く歩來 (アユミキタ) れる宮と互いに知らで行合 (ユキア) ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些 (チット) も泣くことは無いじゃないか。空涙 (ソラナミダ)!。」
「どうせ然 (サ) うよ。」
殆ど聞得べからざるまでに其聲は涙に亂れたり。
「宮さん、お前に限っては然 (サウ) 云ふ了簡 (リョウケン) は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それじゃ依樣 (ヤツパリ) お前の心は慾だね、財 (カネ) なのだね。如何に何でも餘り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛想は盡きないかい。
好い出世をして、然 (サ) ぞ榮曜も出來て、お前はそれで可 (ヨ) かろうけれど、財に見換へられて棄てられた僕の身になって見るが可い。無念と謂はうか、口惜いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺して・・・・驚くことは無い!・・・・・いっそ死んで了 (シマ) ひたいのだ。 それを怺 (コラ) へてお前を人に奪 (ト) られるのを手出しも爲ずに見てゐる僕の心地 (ココロモチ) は、甚麼 (ドンナ) だと思ふ、甚麼 (ドンナ) だと思ふよ!
自分さへ好ければ他は如何 (ドウ) ならうともお前は管 (カマ) はんのかい。一體貫一はお前の何だよ、何だと思ふのだよ。鴫澤の家には厄介者の居候でも、お前の爲には夫じゃないかい。僕はお前の男妾 (オトコメカケ) になった覺は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物 (ナグサミモノ) にしたいのだね。平生お前の仕打ちが水臭い水臭いと思ったも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意 (ツモリ) で本當の愛情は無かったのだ。然 (サ) うとは知らず僕は自分の身よりもお前の事を思って居た。其程までに思ってゐる貫一を、宮さん、お前は如何 (ドウ) しても棄てる気かい。
それは無論金力の點では、僕と富山とは比較 (クラベモノ) にはならない。彼方 (アッチ) は屈指の財産家、僕は固より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財では買へるものぢゃないよ、幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内 (カナイ) の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互いに深く愛すると云ふ外は無い。 お前を深く愛する點では、富山如きが百人寄っても到底僕の十分の一だけも愛することは出來まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出來ん此の愛情で爭って見せる。夫婦の幸福は全く此の愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己の身に換へてお前を思ってゐるほどの愛情を有ってゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益もない、寧ろ害になり易い、その財産を目的に結婚を爲 (ス) るのは、宮さん、如何 (ドウ) いふ心得なのだ。
然し財といふものは人の心を迷はすもので、智者の學者の豪傑のと、千萬人の人に勝れた立派な立派な男子さへ、財の爲には随分陋 (キタナ) い事も爲 (ス) るのだ。それを考へれば、お前が偶然 (フト) 気の變つたのも、或は無理も無いのだろう、からして僕は其 (ソレ) は咎めない。但もう一遍、宮さん、善く考へて御覧な、其の財が ── 富山の財産がお前の夫婦間に何程 (ドレホド) の効力があるのかと謂ふことを。
雀が米を食ふのは僅か十粒か二十粒だ、俵で置いてあったって、一度に一俵食へるものぢゃない、僕は鴫澤の財産を譲ってもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を缺いて、お前に餒 (ヒモジ) い 思いを爲せるやうな、那樣 (ソンナ) 意気地の無い男でもない。若し間違って、其の十粒か二十粒の工面が出來なかったら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は爲 (サ) せん。宮さん、僕は是・・・・・此程までにお前の事を思ってゐる!」

著・尾崎 紅葉  刊行・日本近代文学館 総発売元・ほ る ぷ