〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/03 (金) 金色夜叉 ・ 第八章 C

宮は挫 (ヒシ) ぐばかりに貫一に取着 (トリツ) きて、物狂しう咽入 (ムセビイ) りぬ。
「那樣 (ソンナ) 悲しい事いはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるにおだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚 (ナカ) の中には言ひたい事が澤山あるのだけれど、餘 (アンマ) り言難 (イヒニクイ) い事ばかりたから、口へは出さないけれど、唯一言 (タダヒトコト) いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ・・・・・私は生涯忘れはしないわ。」
「聞きたくない!忘れんくらゐなら何故見棄てた。」
「だから、私は決して見棄てはしないわ。」
「何、見棄てない。見棄てないものが嫁に歸 (ユ) くかい、馬鹿な!二人の夫が有 (モ) てるかい。」
「だから私は考へてゐる事があるのだから、最 (モ) 少し辛抱して其 (ソレ) を ── 私の心を見て下さいな。吃度 (キット) 貴方の事を忘れない證據を私は見せるわ。」
「ええ、狼狽 (ウロタ) へて行 (クダ) らんことを言ふな。食ふに窮つて身を賣らなければならんのじゃなし、何を苦しんで嫁に歸 (ユ) くのだ。内には七千圓も財産が在って、お前は其處の一人娘ぢゃないか、而 (サウ) して婿まで極 (キマ) つてゐるのぢゃないか。其婿も四五年の後には學士になると末の見込みも着いてゐるのだ。 而もお前は其婿を生涯忘れないほどに思って居ると云ふぢゃないか。それに何の不足が有って、無理にも嫁に歸かなければならんのだ。天下に是くらゐ理 (ワケ) の解らん話が有ろうか。如何 (ドウ) 考へても嫁に歸くべき必要の無いものが無理に算段をして嫁に歸かうと爲 (ス) るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決して此二件 (コノフタツ) の外にはあるまい。言って聞かしてくれ。遠慮は要らない、さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫と定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、這麼 (コンナ) 事に遠慮も何も要るものか。」
「私が悪いのだから堪忍して下さい。」
「それじゃ婿が不足なのだね。」
「貫一さん、それは餘りだわ、那樣 (ソンナ) に疑ふのなら、私は甚麼 (ドンナ) 事でもして、而して證據を見せるは。」
「婿に不足は無い?それじゃ富山は財 (カネ) があるからか、して見ると此結婚は欲からだね、離縁も欲からだね。で、此結婚はお前も承知したのだね、ええ?
翁さん姨さんに迫られて、餘義無くお前も承知したのならば、僕の考えで破談にする方は幾許 (イクラ) でもある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊 (ブチコハ) して了 (シマ) ふことは出來る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適 (イ) つて見る気は有るのかい。」

著・尾崎 紅葉  刊行・日本近代文学館 総発売元・ほ る ぷ