〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/03 (金) 金色夜叉 ・ 第八章 B

「何で富山が後から尋ねて來たのだ。」
宮は其唇 (ソノクチビル) に釘打たれたるたうに再び言は出でざりき。貫一は、恁 (カ) く詰責 (キッセキ) せる間に彼の必ず過ちを悔 (ク) ゐ、罪を詫びて、其身は未 (オロ) か命までも己の欲する盡ならんことを誓ふべしと信じたりしなり。
設し信ぜざりけんも、心陰 (ココロヒソカ) に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかりも然 (サ) せる気色 (ケシキ) は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一圖の心變を、貫一はなかなか信 (マコト) しからず覺ゆるまでに呆れたり。
宮は我を棄てたるよう。我は我妻を人に奪われたるよ。我命にも換へて最愛 (イトオシ) みし人は芥 (アクタ) の如く我を悪 (ニク) めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤 (イカリ) は彼の胸を劈 (ツンザ) きて、幾 (ホトホ) と身も世も忘れたる貫一は、あはれ姦婦の肉を啖 (クラ) ひて、此熱腸 (コノネツチャウ) を冷 (サマ) さんとも思へり。忽 (タチマ) ち彼は頭脳の裂けんとするを覺えて、苦痛に得堪へずして尻居 (シリイ) に僵 (タフ) れたり。
宮は見るより驚く遑 (イトマ) もあらず、諸共 (モロトモ) に砂に塗 (マビ) れて掻抱 (カキイダ) けば、閉じたる眼より亂落 (ハフリタ) つる涙に浸 (ヒタ) れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨 (サマヨ) ひて、迫れる息は凄 (スザマ) しく波打つ胸の響きを傳ふ。 宮は彼の背後 (ウシロ) より取縋 (トリスガ) り、抱緊 (イダキシ) め撼動 (ユリウゴカ) して、戰 (オノノ) く聲を勵 (ハゲマ) せば、勵 (ハゲマ) す聲は更に戰 (オノノキ) きぬ。
「如何 (ドウ) して、貫一さん、如何 (ドウ) したのよう!。」
貫一は力無げに宮の手を執 (ト) れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇 (ネンゴロ) に拭 (ヌグ) ひたり。
「吁、宮さん恁して二人が一處に居るのも今夜限だ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言ふのも今夜限だよ。一月の十七日、宮さん、善く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一は何處で此月を見るのだか!
再来年の今月今夜・・・・・十年後の今月今夜・・・・・一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可 (イ) いか、宮さん、一月十七日だ。來年の今月今夜になったらば僕の涙で必ず曇らして見せるから、月が・・・・・月が・・・・・月が・・・・・曇ったらば、宮さん、貫一は何處かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ。」

著・尾崎 紅葉  刊行・日本近代文学館 総発売元・ほ る ぷ