〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/02 (木) 金色夜叉 ・ 第八章 A

「それで僕は考へたのだ、是 (コレ) は一方には翁さんが僕を説いて、お前さんの方は姨さんが説得しようと云うので、無理に此處へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼みと有って見れば、僕は不承知を言ふことなどの出來ない身分だから、唯々 (ハイハイ) と言って聞いて居たけれど、宮さんは幾多 (イクラ) でも剛情 (ガウジャウ) を張って差支 (サシヅカヘ) 無いのだ。 如何 (ドウ) あっても可厭 (イヤ) だとお前さんさへ言通せば、此縁談はこれで破 (ヤブ) れて了ふのだ。
僕が傍に居ると知恵を付けて邪魔を為 (ス) ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計 (ハカリゴト) だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜は夜一夜寐 (ヨツピテネ) はしない、那樣 (ソンナ) 事は萬々 (バンバン) 有るまいけれど、種々 (イロイロ) 言うはれる爲に可厭 (イヤ) とは言はれない義理になって、若 (モシ) や承諾するやうな事があっては大變だと思って、家 (ウチ) は學校へ出る積 (ツモリ) で、僕はわざわざ樣子を見に來たのだ。
馬鹿な、馬鹿な!貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何處に在る!僕は是程自分が大馬鹿とは二十五歳の今日まで知・・・・・・知・・・・・知らなかった。」
宮は可悲 (カナシサ) と可懼 (オソロシサ) に襲はれて少しく聲さへ立てて泣きぬ。
(イカリ) を抑 (オサ) ふる貫一の呼吸は漸 (ヤウヤ) く亂れたり。
「宮 (ミイ) さん、お前は好くも僕を欺いたね。」
宮は覺えず慄 (オノノ) けり。
「病気と云って此へ來たのは、富山と逢ふ爲だろう。」
「まあ、其ばつかりは・・・・・。」
「おゝ、其ばつかりは?」
「餘 (アンマ) り邪推が過ぎるわ、餘り酷 (ヒド) いわ。何ぼ何でも餘り酷い事を。」
泣入る宮を尻目に掛けて。
「お前でも酷いと云ふ事を知ってゐるのかい、宮さん。是が酷いと云って泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は・・・・・貫一は・・・・・貫一は血の涙を流しても足りは爲 (セン) んよ。
お前が得心せんものなら、此地 (ココ) へ來るに就いて僕に一言も言はんと云ふ法は無かろう。家を出るのが突然で、其暇が無かったなら、後から手紙を寄來すが可いぢゃないか。出抜いて家を出るばかりか、何の便りも爲 (セ) ん處を見れば、始から富山と出會ふ手筈になってゐたのだ。或は一所に來たのかも知れはしない。宮さん、お前は姦婦だよ、姦通したも同じだよ。」
「那樣 (ソンナ) 酷いことを、貫一さん、餘りだわ、餘だわ。」
彼は正體も無く泣頽れつつ、寄らんとするを貫一は突退 (ツキノ) けて、
「操を破れば姦婦ぢゃあるまいか。」
「何時私が操を破って?」
「幾許 (イクラ) 大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻 (サイ) が操を破る傍に付いて見て居るものかい!貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、其夫を出抜いて餘所 (ヨソ) の男と湯治 (トウヂ) に來てゐたら、姦通して居ないといふ證據 (ショウコ) が何處 (ドコ) に在る。」
「然 (ソ) う言はれて了 (シマ) ふと、私は何とも云へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあったのと云ふのは、其 (ソレ) は全く貫一さんの邪推よ。私等 (ワタシタチ) が此地に來てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて來たのだわ。」

著・尾崎 紅葉  刊行・日本近代文学館 総発売元・ほ る ぷ