〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/02 (木) 金色夜叉 ・ 第八章 @

打霞 (ウチカスミ) みたる空ながら、月の色は匂滴 (ニホヒコホ) るるやうにて、微白 (ホノジロ) き海は縹渺 (ヘウベウ) として限りを知らず、譬 (タト) へば無邪気なる夢を敷 (シ) けるに似たり。
寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き來る風は人を酔はしめんとす。打連れて此濱邊を逍遥せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯胸が一杯で何も言ふことが出来ない・。」
五歩六歩行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍して下さい。」
「何も今更誤ることは無いよ。一體今度の事は翁 (ヲヂ) さん姨 (ヲバ) さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、其を聞けば可いのだから。」
「・・・・・・・・・・・。」
「此地へ來るまでは僕は十分信じて居った、お前さんに限って那様 (ソンナ) 了簡のあるべき筈は無いと。實は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間で、知れ切った話だ。
昨夜翁さんから悉しく話があって、其上に頼むといふ御言だ。」
差含 (サシグ) む涙に彼の聲は顫 (フル) ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから頼むと言はれた日には、僕の體は火水の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精~だ。火水の中へなら飛込むが、此頼 (コノタノミ) ばかりは僕も聽くことは出來ないと思った。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もっと無理な、餘り無理な頼ではないかと、僕は濟まないけれど翁さんを恨んでゐる。
(サウ) して、言ふ事も有らうに、此頼を聽いてくれれば洋行さして遣るとお言 (イ) ひのだ。
い・・・・・い・・・・・いかに貫一は乞食士族の孤兒 (ミナシゴ) でも、賣つた銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は蹈留 (フミトドマ) りて海に向ひて泣けり。宮は此時始めて彼に寄添ひて、気遣 (キヅカハ) しげに其顔を差覗きぬ。
「堪忍してくださいよ、皆私が・・・・・何 (ドウ) ぞ堪忍して下さい。」
貫一の手に縋りて、忽ち其肩に面 (オモテ) を推當 (オシア) つると見れば、彼も泣音 (ナクネ) を洩らすなりけり。
波は漾々 (ヤウヤウ) として遠く煙り、月は朧 (オボロ) に一灣 (ワン) の眞砂 (マサゴ) を照らして、空も汀 (ミギハ) も淡白 (ウスジロ) き中に、立盡 (タチツク) せる二人の姿は墨の滴りたるやうの影を作れり。
著・尾崎 紅葉  刊行・日本近代文学館 総発売元・ほ る ぷ