〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/10/02 (木) 作者略歴 ・菅原道真

家は代々紀伝道の儒家の系統で、曾祖父古人 (フルヒト) の代に、光仁、桓武の二朝に自読として仕え、光仁帝より菅原の姓を賜る。祖父清公 (キヨキミ) は延暦二十三年 (804) 遣唐判官として渡唐後、平城、嵯峨の二朝に仕えた。又父是善 (コレヨシ) は、仁明、文徳、清和の三朝に仕え参議となった。
道真は是善の第三子として仁明天皇の承和十二年 (845) 六月京都に生まれ、幼少より学問を好み、経史、詩歌に秀で、書は弘法、道風と共に三聖と称せられた。十一才の春に作った梅花の詩は人を驚嘆せしめて有名である。
寛平三年 (891) 関白藤原基経の没後、道真は宇多天皇の信任を受けて蔵人頭となった。寛平六年 (894) 遣唐使を命ぜられたが、唐の内乱 (当時唐朝は末期的状態にあり九0七年には滅んだ) を説いてその廃止を建言し、遣唐使はこれで終わりとなった。
宇多天皇は在位十年で退位、醍醐天皇の昌泰二年 (899) に藤原時平は左大臣に道真は右大臣に任命された。
当時は藤原一門が要職を占めていた時代で、道真が右大臣になったことは異例の事であった。不安やねたみの中でしばしば讒言が行われ、遂に延喜元年 (901) 正月、道真は太宰権帥におとされて流されることになった。
この処置は極めて苛酷なもので、妻は京に、大勢の子供達の内官位ある男子や、すでに嫁いだ娘たち迄それぞれ別々に流され、わずかに幼子の同行を許されたのみであった。
道真は憂悶に堪えず、我が家の庭に咲き誇る梅を見て 「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花・・・・」 と詠じ、又宇多上皇に 「・・・・・君しがらみとなりてとどめよ」 と哀訴して寂しく京をあとにした。
太宰権帥と云えば大宰府の長官であるが、それは名のみにて罪人としての道真には政治への関与は許されなかった。
然し少しも怨むことなく日々門を堅く閉じて謹慎し、文筆にのみ心を慰めながら二年余、延喜三年 (903) 二月二十五日、五十九才を一期にさびしく生涯を閉じた。
歿後京都北野に天満天神として祀られ皇室のあつい崇拝をうけると共に今も尚学問の神さまとして全国的な信仰を得ている。
作品は、 「日本文コ天皇実録」 の序文を作り、 「類聚国史」 二百巻を編修し、詩文では 「菅家文章」 「菅家後集」 がある。

社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年五月号掲載 ヨ リ