〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/07/05 (土) 作者略歴 ・上 杉 謙 信

上杉氏は元藤原氏の一族で、鎌倉時代の建長四年 (1252) に重房が丹波の国 (京都府) の上杉荘 (ウエスギニショウ) を領地にして以来、上杉を名乗るようになった。
室町時代には関東管領に属してその執事となり、永享 (エイキョウ) の乱 (1483) で関東管領が滅んだ後は、一人東国で勢力を振るった。
然し上杉氏自身も扇谷 (オウギガヤツ) 、山内 (ヤマノウチ) の両家に分かれてより衰えた。
戦国時代に扇谷の執事太田道灌が (オオタドウカン) が江戸城を築いて (1456) より勢力を盛返したが、やがて北条氏に勢力を奪われた。
謙信は享禄 (キョウロク) 三年一月二十一日、越後 (新潟県) 守護代長尾信濃守為影 (ナガオシナノノカミタメカゲ) の子として春日山城 (高田市の西郊) に生まれ、幼名を虎千代といい、成人して長尾景虎と云った。
勢力の衰えた上杉憲政 (ノリマサ) は家臣の景虎に救援を請い、更に家を景虎に譲り、景虎は上杉家を嗣いで名を謙信と改め不識庵と号した。
謙信は戦国の世に群雄を圧した武将として勇名を轟かしたのみか、詩歌をたしなみ、書は青蓮院書風の正統を学び、また能や笛等にも親しみを通じていた。 天文二十一年 (1552) 武田信玄は信濃に兵を進め、村上義清を攻めた。翌年八月に敗れた義清はその失地の回復を謙信に託し、以来謙信と信玄は千曲 (チクマ) 、犀 (サイ) の両川を挟んで、永禄四年 (1561) の秋まで四回に亘って戦を交えるが、これが世にいう川中島の戦いである。然し遂に雌雄を決することが出来ず和睦してこの争いは終わりを告げた。
海のない甲斐 (山梨県) のの国で塩が無くて困っているのを聞き越後から塩や海産物を贈ったという話もこの後である。
戦国時代の武将は其の殆どが、将来京にのぼって天下に号令することを胸に描き、其の目的に向かって機略を戦わせていた。 謙信もその中の一人で十四歳の頃より北陸はもとより関東、東海にまで威を振るい、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛騨、陸奥、上野、出羽、常陸 の国々を彼の勢力下に収めた。
天正二年 (1574) 能登を攻略し、七尾城を陥れた際 「越山併得能州景」 と詠じた謙信は、この頃が彼にとって最も得意な欣快を叫んだ時であったかも知れなぬ。
一足先に京にのぼった織田信長は将軍足利義昭を追放し、義昭は謙信に身分回復を依頼した。
謙信は義昭の請いを入れて管内に八ヶ国の軍に令して信長を討つべく準備をすすめるうち俄かに病に倒れ天正六年 (1578) 三月十三日彼の生涯を閉じた。

社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年四月号掲載 ヨ リ