〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/04/08 (火) 作者略歴・乃木 希典

乃木家の先祖は宇治川の合戦の際 (1184) 源義経 (ミナモトノヨシツネ) の配下に属して先陣争いで勇名を馳せた佐々木四郎高綱 (ササキシロウ タカツナ) で、高綱の子光綱 (ミツツナ) が出雲国 (イズモノクニ) (島根県) 八束郡乃木村 (アツカゴウリ ノギムラ) に住しより乃木を姓となす。
父十郎希次 (マレツグ) は元毛利藩の藩医であったが、医術を以って仕えることを心よしとせず武芸の鍛錬に余念がなかった。
後に弓術を認められて馬廻役となり、更に藩主の娘の銀姫の守役を命じられた。古武士の気風ありて長府の児島高徳と言われ又生ける武士道とも云われた。
希典は嘉永二年 (1849) 十一月十一日江戸麻布日ヶ窪にあった長府藩主毛利甲斐守邸内に生まれた。
二人の兄が早世した後生まれたので両親は反対の意思を示して無人 (ナキト) と名付けたが幼時虚弱で内気な上、臆病であったために人に泣人 (ナキト) と呼ばれた。後に元服して源三と改め更に文蔵、希典と改名した。
希典十歳の時一家は長府 (山口県) に移ることになった。此の頃より結城香涯の門に入って漢学詩文を学んだのを始め、兵書や武家礼法、弓術、馬術、槍術、剣道、更に西洋砲術などについてもそれぞれ師を求めて教えを受けた。
十五歳の時萩に住む乃木家には分家に当る玉木文之進の家に寄宿して指導訓育を受けた。
文之進は吉田松陰の伯父に当る人で又師でもあった。この時受けた陽明学を基盤とした学問は希典の生涯に大きな影響を与えた。
慶応元年 (十六歳) より萩の藩学明倫館文学寮に通学したが、この間長府藩の報国隊に入り高杉晋作や山形狂介 (後の有朋) から軍人としての手ほどきを受け、幕府の長州征伐には山砲を指揮してこれと戦ったこともある。
明治四年十一月異例の抜擢を受け陸軍少佐に任ぜられ、八年十二月には歩兵第十四連隊長心得を命ぜられ暗雲低迷する小倉に赴任した。
十年一月西南の役起こるや谷少将の命を受けて南関に向い、熊本城に入らんとしたが果たせず、二月二十二日植木駅付近の戦闘の際連隊旗手河原少尉は戦死、連隊旗は敵手に奪われてしまった。
この事件は希典の生涯中最大の痛恨事で幾度か死処を求めさせることになった。
十九年十一月川上操六少将と共にドイツに留学一年有余に亘って兵制、戦術等について調査研究をなして帰朝。
日清戦争には第一旅団長として第二軍 (軍司令官大山巌) に属して旅順をはじめ各地に転戦した。
戦後、二十九年十月初代台湾総督として渡台、教育施設を完備するなど台湾発展の為に専念したが、時の中央政府の措置に不満を抱き任を辞して帰国、以来那須野に閑居する。
日露戦争には、第三軍司令官として出征し旅順の攻撃を指揮して降伏せしむ。 この戦いで勝典・保典の二子を失う。
帰国して軍事参議官となり勲一等、功一級を賜る。
四十年、明治天皇の格別の思召しにより学習院長に任ぜられ又伯爵に叙せられた。
四十五年七月三十日天皇崩御、大正元年 (1912) 九月十三日御大喪の当夜赤坂新坂町の自邸 (現乃木神社所在) に於て殉死享年六十四歳。 静子夫人もまた希典に殉じた。
希典は大正五年特旨を以って正二位を贈らる。

社団法人日本詩吟学院岳風会発行 「吟 道」 平成二十年三月号掲載 ヨ リ