〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/01/13 (日) 江馬 細香 (二)

    さい  こう 

山陽の死後は詩稿の批正をその弟子である後藤松陰に託す。また大垣の詩壇では若い人々を導く役割を果たしていた。弘化初年大垣に結ばれた 「黎祁吟社 (レイキギンシャ) 」 、嘉永年間の 「咬菜写 (コウサイシャ) 」 などの詩社で細香は小原鉄心とともにその中心となった。
大垣藩の重臣である鉄心は勤皇派で、特に維新の前後には藩のために力を尽くすこととなる人である。
彼と細香は天保十一年 (1840) 頃より往来が繁しくなるが、この頃の彼女の交友には外にも山陽の遺児三樹三郎ら勤皇派の志士が目立つ。
弘化二年 (1845) には梁川星巌夫妻が江戸より帰郷、かかる人間関係の中にあって時事に無関心ではあり得なかったであろう。
嘉永六年 (1853) ペリーが浦賀に来航した際、藩兵を率いて浦賀に向かった鉄心に彼女は詩三首を贈って励ましている。また安政元年 (1853) ペリーが再び来航した際には、

「諸人海防の迂論 (ウロン) も最早此の如き時勢と相成り候ては致方無し」 (正月十五日付)
と嘆く三樹三郎の書簡を手にし、自身も江馬天江 (エマ テンコウ) 宛ての書簡で
「後年恐るべき事に候」 (三月二日付)
と不安をもらしている。
安政五年 (1858) 九月、いわゆる安政の大獄が起こり、捕らえられた頼三樹三郎はそのまま小塚原の刑場で首をはねられた。
彼女に懐いていた三樹三郎に細香は山陽の面影を重ね、わが子のごとく愛情をかけていた。その彼の死後、そして若き志士たちの非業の死を彼女はどのような気持ちで受け止めたのであろうか。

安政年間には大垣藩主や夫人のために墨竹を揮毫し、菱牡丹の章服を賜るなどの栄誉にも浴しているが、身体は次第に衰老に向い、動脈硬化による吐血を見るに至った。その折にも彼女は、胸を病み喀血しつつ逝った師の病状にわが身を重ねずにはいられなかったのである。
文久元年 (1861) 、中風症が再発した彼女は九月四日息を引き取り、大垣藤江町禅桂寺に葬られる。享年七十五であった。

細香は豊かな才能と厳格にして慈愛溢れる父母の家庭とに恵まれていたが、当時の女性並に嫁して、夫とその家族と子供とを人生の目的とする生き方を拒んだ。それは確かに彼女自ら選んだ生き方ではあったが、だからといって後悔を全く感じなかったわけではあるまい。美貌と才能との衰えを予感するとき、不意に孤独と焦燥が胸をつく。その度ごとに持ち前の矜持で自分を取り戻しはするが、彼女の心は常にそうした不安と誇りの間を行きつ戻りつしている。
この彼女の心の揺れ動きを最もよく知っていたのが他ならぬ山陽であった。細香に与えられた彼の書簡や詩評は彼女の心情を合わせ鏡のように照らし出してくれる。

ある山陽書簡には
「世事御嫌にて、被欠人間之歓娯候義も有之所、今般之所にて見候へば、是れが却而苦悩之基と相成候と相見え候。誤了半生、女児身可惜」 (文政三年 (1820) 細香宛書簡)
という。
細香は自らの情の赴くままに自己を解き放って幸せに浸ろうとするよりは、欲望を抑えて、幸せが引いたあとの惨めな悲嘆から自らを救おうとする人であった。
彼女のそうした人生観は 『源氏物語』 に登場する女君の中で空蝉に最も共感を寄せているところなどにも表れている。山陽などの男性の目より見たならば物足りない生き方に見えたかもしれない。しかしそれは知識人であった女性が自己を他者に埋没させず、誇りを持ち続けて生きるためには選ばざるを得ない道だった。そしてその代償としての孤独は当然のこととして、自ら引き受けなけらばならなかった。

細香の初期の素養は画技の上達のために画論書や和漢の典籍をひもといたことにより形成された。
彼女は詩を本格的に作り出したのは山陽と出会ってより後のことで、彼は彼自身の理想に沿って彼女を育て導いている。その詩の特色は非常に女性らしく、実感に即した細やかな情趣に富むところにある。これは彼女自身の人となりにもよるが、多分に頼山陽の意図したところが大きい。
彼の詩評を見ると実情に即して作るように、女性ならではの感性を生かすようにと繰り返し助言している。そうした細香にとっての漢詩とは、比較的私的な営みの色合いが濃い。彼女自身は自らを詩人であるよりもむしろ画人として意識していたふしがある。山陽の再三の勧めにもかかわらず、終生彼女は自身の詩集を上梓しようとしなかったし、また家里松オ (イエサト ショウトウ) は 『安政三十二家絶句』 の続編の上梓を計画して、それに細香の詩も載せようと働きかけたが、彼女はこれを謝絶している。
一方画については 「竹に題す」 (五十一頁) の詩に、 「流伝せば後有るが如し」 というごとく後世に残るものと見なし、自らの生命を託す思いで描いていることが窺える。
詩は彼女にとってあるいは師頼山陽や近しい友とのコミニュケーションそのものであり、あるいはまた自らに語りかけた日々の独白だったのかもしれない。しかしそれゆえにかえって、その詩は彼女自身の声を載せ、読む者に今も訴える力を持ち続けている。
『江戸漢詩選 (三) 女 流』 発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:福島 理子 ヨ リ