山陽の死後は詩稿の批正をその弟子である後藤松陰に託す。また大垣の詩壇では若い人々を導く役割を果たしていた。弘化初年大垣に結ばれた
「黎祁吟社 (レイキギンシャ) 」 、嘉永年間の 「咬菜写
(コウサイシャ) 」 などの詩社で細香は小原鉄心とともにその中心となった。
大垣藩の重臣である鉄心は勤皇派で、特に維新の前後には藩のために力を尽くすこととなる人である。
彼と細香は天保十一年 (1840) 頃より往来が繁しくなるが、この頃の彼女の交友には外にも山陽の遺児三樹三郎ら勤皇派の志士が目立つ。
弘化二年 (1845) には梁川星巌夫妻が江戸より帰郷、かかる人間関係の中にあって時事に無関心ではあり得なかったであろう。
嘉永六年 (1853) ペリーが浦賀に来航した際、藩兵を率いて浦賀に向かった鉄心に彼女は詩三首を贈って励ましている。また安政元年
(1853) ペリーが再び来航した際には、
|