〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2008/01/04 (金) 魚 歌 水 心 (五)

「ア。アッ」
「巌流どのが」
彼方の床机場のほうで、そうした声が、さっと流れた。
われを忘れて。
岩間角兵衛も起ち、その周りの者も、凄惨な顔をそろえて、伸び上がった。 ── が、すぐ側の、長岡佐渡や伊織たちのいる床机場のひとかたまりが、自若としているのを見て、強いて平静を装いながら、角兵衛もその周囲も、じっと、動かないことに務めていた。
が ── 蔽いようもない敗色と、滅失の惨気が、巌流の勝を信じていた人々のうえを包んだ。
「・・・・・?」
しかもなお、未練や煩悩は、そこまでの現実を見ても、自分らの眼の過りではないか ── と疑うように、生つばをのんで、しばし放心していた。
島の内は、一瞬の次の一瞬も、人なきように、ひそまり切っていた。
無心な松風や草のそよぎが、ただにわかに人間の無常観をふくだけだった。
── 武蔵は。
一朶の雲を、見ていた。ふと見たのである、我に返って。
今は雲と自身とのけじめを、はっきり意識にもどしていた。
遂にもどらなかった者は、敵の巌流佐々木小次郎。
足数にして、十歩ほど先に、その小次郎はうつ伏せに仆れている。草の中へ、顔を横にふせ、握りしめている長剣の柄には、まだ執着の力が見える。 ── しかし苦しげな顔では決してない。その顔を見れば、小次郎は自己の力を挙げて、善戦したという満足がわかる。戦いに戦いきった者の顔には、すべて、この満足感があらわれているものである。そこに残念 ── と思い残しているような陰は少しも見当たらない。
武蔵は、斬れ落ちている自分の渋染の鉢巻に眼を落として、肌に粟を生じた。
「生涯のうち、二度と、こういう敵と会えるかどうか」
それを考えると、率然と、小次郎に対する愛情と、尊敬を抱いた。
同時に、敵からうけた、恩を思った。剣を把っての強さ ── 単なる闘士としては、小次郎は、自分より高いところにあった勇者に違いなかった。そのために、自分が高い者を目標になし得た事は、恩である。
だが、その高い者に対して、自分が勝ち得たものは何だったか。
技か。天佑か。
否 ── とは直ぐ言えるが、武蔵にも分からなかった。
漠とした言葉のまま言えば、力や天佑以上のものである。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。それだけの差でしかなかった。
「・・・・・・」
黙然と、武蔵は、十歩ほど歩いた。小次郎の体のそばに膝を折った。
左の手で小次郎の鼻息をそっと触れてみた。微かな呼吸がまだあった。武蔵はふと眉を開いた。
「手当に依っては」
と、彼の生命に、一縷の光を認めたからである。と同時に、かりそめの試合が、この惜しむべき敵を、この世から消し去らずに済んだかと、心もかろく覚えたからであった。
「・・・・おさらば」
小次郎へも。
彼方の床机場の方へも。
そこから手をついて、一礼すると武蔵の姿は、一滴の血もついていない櫂の木剣を提げたまま、さっと北磯の方へ走り、そこに待っていた小舟の中へ跳び乗ってしまった。
どこへ指して、どこへ小舟は漕ぎ着いたか。
彦島に備えていた巌流方の一門も、彼を途中に擁して師巌流の弔合戦に及んだという話は遂に残っていない。
生ける間は、人間から憎悪や愛執は除けない。
時は経ても、感情の波長はつぎつぎにうねってゆく。武蔵が生きている間は、なお快しとしない人々が、その折の彼の行動を批判して、すぐこう言った。
「あの折は、帰りの逃げ途も怖いし、武蔵にせよ、だいぶ狼狽しておったさ。何となれば、巌流に止刀 (トドメ) を刺すのを忘れて行ったのを見てもわかるではないか」 ── と。
波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水の深さを。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ