〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2008/01/03 (木) 魚 歌 水 心 (四)

水を切って岸へ、斜めに、武蔵が駈け上がったのを見ると、巌流は、波打ち際の線に沿って、その姿を追った。
武蔵の足が、水を離れて磯の砂地を踏んだのと、巌流の大刀が ── いや飛魚のような全姿が、
「喝ッ」
と、敵の体へ、すべてを打ち込んだのと、ほとんど、同時であった。
海水から抜いた足は重かった。武蔵はまだ戦う体制になかった瞬間のように見えた。物干竿の長剣が、自己の上に、ひゅっ ── と来るかと感じた時、彼のからだはまだ、駈け上がったまま、いくぶんか前のめりに屈曲していた。
── が、
櫂削の木剣は、両の手で、右の小脇から背へ隠すように深く、横へ構えられていた。
「・・・・ムむ!」
といったような ── 武蔵の声なきものが、巌流の面を吹いた。
頂点から斬り下げて行くかと見えた巌流の刀は、頭上に鍔鳴りをさせたのみで、武蔵の前へ約九尺ほども寄ったところで、却って、自身から横へばっと身を反らせてしまった。
不可能を覚ったからである。
武蔵の身は、巌のように見えた。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
当然、双方の位置は ── その向きを変えている。
武蔵は、居所のままだった。
水の中から、二、三歩あがったままの波打ち際に立って、海を背後に、巌流の方に向き直った。
巌流は、その武蔵に、直面し ── また、全面の大海原に対して、長剣物干竿を諸手に振りかぶっていた。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
こうして、二人の生命は今、完全な戦いの中に呼吸し合った。
元より武蔵も無念。
巌流も、無想。
戦いの場は、真空であった。
が、波騒の外 ──
また、草そよぐ彼方の床机場の辺り ──
ここの真空中の二つの生命を、無数の者が今、息もつかずに見守っていたに違いなかった。
巌流のうえには、巌流を惜しみ、巌流を信じる ── 幾多の情魂や祷りがあった。
また、武蔵のうえにもあった。
島には、伊織や佐渡。
赤間ヶ関の渚には、お通やばばや権之助や。
小倉の松ヶ丘には、又八や朱美なども。
その各々が、ここを見る目も届かない所から、ひたすら、天を祈っていた。
しかし、この場所には、そういう人々の祈りも涙も加勢にはならなかった。また、偶然や神助もなかった。あるのは、公平無私な青空のみであった。
その青空の如き身になりきることがほんとの無念無想の相 (スガタ) というのであろうか、生命の持つ身に容易になれないことは当然である。ましてや、白刃対白刃のあいだでは。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
ふと。おのれッと思う。
満身の毛穴が、心をよそに、敵へ対して、針のようにそそけ立ってやまない。
筋、肉、爪、髪の毛 ── およそ生命に付随しているものは、睫毛ひとすじまでが、みな挙げて、敵へ対し、敵へかかろうっとし、そして自己の生命を守りふせいでいるのだった。その中で、心のみが、天地と共に澄みきろうとすることは、暴雨 (アラシ) の中に、池の月影だけ揺れずにあろうとするよりも至難であった。

長い気持ちのする ── しかし事実はきわめて短い ── 寄せ返す波音の五たびか六たびもくり返すあいだであったろうか。
やはて ── という程の間もない内にである。大きな肉声は、その一瞬を破った。
それは、巌流のほうから発したものだったが、殆ど、同音になって、武蔵の体からも声が出た。
巌を搏 (ウ) った怒涛のように、二つの息声 (ソクセイ) が精神の飛沫を揚げ合ったとたんに、中央の太陽をも斬って落とすような高さから、長刀物干竿の切っ先は、細い虹を引いて、武蔵の真っ向へ跳んで来た。
武蔵の左の肩が ──
その時、前下がりにかわった。腰から上の上半身も、平面から斜角に線を改めた時、彼の右足は、少し後ろへ引かれていた。
そして諸手の櫂の木剣が、切っ下がりに、彼の真眉間 (マミケン) を割って来たのと、そこに差というほどの差は認められなかった。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
ぱっと、もつれた一瞬の後は、二人の呼吸が磯の波よりは高かった。
武蔵は、波打際から、十歩ほど離れて、海を横にし、跳びのいた敵を、櫂の先に見ていた。
櫂の木剣は、正眼に持たれ、物干竿の長剣は、上段に返っていた。
しかし、二人の間隔は、相搏った一瞬に、おそろしく遠退いていた。長槍と長槍とでも届かないくらいな間隔にわかれていたのである
巌流は、最初の攻勢に、武蔵の一髪も斬ることは出来なかったが、地の利は、思うように占め直したのである。
武蔵が、海を背にして、動かなかったのは、理由があったことである。真昼の中の陽は海水につよく反射して、それに対っている巌流に取っては、はなはだしい不利だったのだ。もし、その位置のまま武蔵の守勢に対して、ぐっと対峙していたら、たしかに、武蔵よりも先に精神も瞳も疲れてしまったに違いないのである。
── よしっ。
思うように、地歩を占め直した彼は、すでに武蔵の前衛を破ったかのような意気を抱いた。
と ── 巌流の足はじりじりと小刻みに寄って行った。
間隔を詰めて行く間に敵の体形にのどこに虚があるかを観、同時に、自己の金剛身 (コンゴウシン) をかためて行くべく、それは当然な小刻みの足もとだった。
ところが、武蔵は、彼方からずかずかと歩み出して来た。
巌流の眼の中へ、櫂の先を突っ込むように、正眼に寄って来たのである。
その無造作に、巌流が、はっと詰足 (ツメアシ) を止めた時、武蔵の姿を見失いかけた。
櫂の木剣が、ぶんと上がったのである。六尺近い武蔵の体が、四尺ぐらいに縮 (チジ) まって見えた。足が地を離れると、その姿は、宙 (チュウ) のものだった。
「 ── あッつ」
巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。
その切っ先から、敵の武蔵が額を締めていた柿色の手拭が、二つに斬れて、ばらっと飛んだ。
巌流の眼に。
その柿色の鉢巻は、武蔵の首かと見えて飛んで行った。血とも見えて、颯ッと、自分の刀の先から刎ね飛んだのであった。
ニコ、と。
巌流の眼は、楽しんだかも知れなかった。しかし、その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。
磯の砂地と、草原の境へ、仆れた後の顔を見ると、自身が負けた顔はしていなかった。唇の端から、こんこんと血こそ噴いていたが、武蔵の首は海中へ斬って飛ばしたように、いかにも会心らしい死微笑を、キュッと、その唇ばたに結んでいた。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ