〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2008/01/02 (水) 魚 歌 水 心 (二)

その日の禁令上、試合に立ち会う役人側では、そういう処置を取ったものの、しかし、藩士の八分までは、当然、同藩の巌流に勝たせたいと祈っていたし、また、師を思うの余りから、そういう行動に出た門下たちに、 肚では同情も寄せていた。
で、一応。
警備上、彼らを船島から追い払ったものの、直ぐ側の彦島へ移っていることなら、不問に済ましておく考えだった。
なお。
試合がすんで ──
万一にも、巌流の方が打ち負けた場合は、それも船島の上のでは困るが、船島を武蔵が離れてからならば、師の巌流のせつえ雪怨という意趣から、どういう行動に出ようとも ── それは自分らの関わり知ったことではない。
── というのが、処置を取った役人側の偽らぬ肚だった。
彦島へ移った巌流の門下たちはまた、それを見抜いている。
そこで彼らは、漁村の小舟を刈り集め、約十二、三の舳を勅使待の浦へ着けておいた。
そして、試合の様子を、直ぐここへ報知する伝令を、山の上に立たせておき、万一の場合には、すぐ三、四十人が各々小舟で海上へ出て、武蔵の帰路を遮り、陸路へ追跡して討ち取るなり、場合によっては、彼の舟を覆して、海峡の底に葬り去ってしまおうとも ── 謀し合わせていたのだ。
「 ── 武蔵か」
「武蔵だ」
呼び交わして、彼らは、小高い所へ駈け上がったり、手をかざして、真昼の陽のぎらぎら反射する海面へ、眸をこらしていた。
「船往来は、今朝から止まっている。武蔵の舟にちがいない」
「一人か」
「一人のようだ」
「つくねんと、何か羽織って坐っておるぞ」
「下へ、小具足でも着けて来たものだろう」
「何せい、手配をしておけ」
「山へ、行ったか、見張りに・・・・」
「登っている。大丈夫」
「では、われわれは、舟のうちへ」
いつでも、綱を切れば、漕ぎ出られるように、三、四十名の者達は、どやどやと、思い思いに小舟へかくれた。
舟には、一筋ずつの長槍も伏せてあった。物々しい扮装 (イデタチ) 振りは、巌流よりも、また、武蔵よりも、その人々の中に見られた。
── 一方。
武蔵見えたり!
という声は、そこのみでなく、同じ頃に、船島にも当然伝わっていた。
ここでは。
波の音、松の声、雑木や姫笹の戦 (ソヨギ) も交じって、全島、今朝から人もないような気配だった。
気のせいか、瀟殺 (ショウサツ) として、それが聞えた。長門領の山から広がった白雲が、ちょうど中天の太陽を時折かすめて、陽が陰ると、全島の樹々や篠のそよぎが、暗くなった。 ── と思うと、一瞬にまた、くわっと陽が照った。
島は、近寄って見ても、極めて狭い。
北はやや高く丘をなして、松が多い。そこから南の懐が、平地から浅瀬となったまま海面へのめり込んでいる。
その丘のふところの平地から磯へかけて、今日の試合場と定められていた。
奉行以下、足軽までの者は、磯からかなり距った所に、樹から樹へ、幕をめぐらし、鳴りをひそめていた。巌流は藩籍に在る者であり、武蔵は拠る所ない者なので、それが相手への威嚇にならない程度には、心して控えている陣容だった。
しかし約束の時刻が、もう一刻以上も過ぎていること。
二度も、ここからの飛脚舟で催促をやってあることなぢで、静粛なうちにも、やや焦燥と反感とを一様に抱いていた所である。
「武蔵どの! 見えましたっ」
絶叫しながら、磯に立って見ていた藩士が、遠い床机と幕の見える方へ駈けて行った。

「── 来たか」
岩間角兵衛は、思わずいって、床机から伸び上がった。
彼は、今日の立会人として、長岡佐渡と共に、派遣されて来た役人ではあるが、彼が今日の武蔵を相手とする人間ではない。
しかし、口走った感情は、自然の流露であった。
彼の脇に控えていた従者や下役の者も、皆、同じ眼色を持って、
「お! あの小舟だ」
と、一緒に起ち上がった。
角兵衛は、公平なる役人の身として、すぐその非に気づいたらしく、
「控えろ」
と、周りのものを誡めた。
じっと、自分も、腰を据えた。 ── そして静かに、巌流のいる方へ流し目を送った。
巌流の姿は見えなかった。ただ、山桃の樹四、五本のあいだに、龍胆 (リンドウ) の紋のついた幕がひらめいていた。
幕ののすそには、青竹の柄のついた柄杓を添えた新しい手桶が一個あった。だいぶ早目に島へ着いた巌流は、相手の来る時刻が遅いので、さっき、水桶の水を飲んでいた。そして幕 (トバリ) の陰で休息していたが、今は、そこに見当たらなかった。
その幕を挟んで、少し先の土坡の向こう側には、長岡佐渡の床机場があった。
ひとかたまりの警護の士と、彼の下役と、彼の従者として伊織が脇に控えていた。
今 ── 武蔵どのが見えた! という声を触れながら、磯の方から一人が駈けて、警備の中に入り込むと、伊織の顔色は、唇まで白くなった。
正視したまま、動かずにいた佐渡の陣笠が、自分の袂を見るように、ふと横を見 ──
「伊織」
と、低声 (コゴエ) で呼んだ。
「・・・・・はっ」
伊織は、指をついて、佐渡の陣笠の裡 (ウチ) を見上げた。
足もとからふるえるような全身のおののきを、どうしようもなかった。
「伊織 ── 」
もいちど、その眼へ、じっといって、佐渡は訓えた。
「よう、見ておれよ。うつろになって、見逃すまいぞ。 ── 武蔵どのが、一命を曝して、そちへ伝授して下さるものと思うて今日は見ておるのだよ」
「・・・・・・」
伊織は、うなずいた。
そして言われたとおり、目を炬 (キョ) のようにみはって、磯の方へ向けていた。
磯まで、一町余はあろう。波打際の白いしぶきが、眼に泌むほどだったが、人影といっては、小さくしか見えないのである。試合となっても、実際の動作、呼吸などを、つぶさに目撃するわけにはゆかない。 ── しかし、佐渡がよく見よと訓えたのは、そういう技の末のことではあるまい。人と天地との微妙な一瞬の作用を見よといったのだろう。また、こういう場所に臨むもののふの心構えというものを、後学のため、遠くからでも見届けておけといったのであろう。
草の波が寝ては起きる。青い虫がときおりとぶ。まだひ弱い蝶が、草を離れ、草にすがっては、何処ともなく去って行く。
「── ア。あれへ」
磯の先へ、徐々と、近づいてきた小舟が、伊織の眼にも、今見えた。時刻はちょうど、規定の時刻よりも遅れること約一刻 ── 巳の刻 (十一時) ごろと思われた。
しいんと、島の内は、真昼の陽だけにひそまり返っていた。
その時、床机場のあるすぐ後ろの丘から、誰やら降りてきた。佐々木巌流であった。待ちしびれていた巌流は、小高い山に上がって、独り腰掛けていたものとみえる。
左右の立会役の床机へ礼をして巌流は、磯の方へ向かい、静かに、草を踏んで歩み出していた。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ
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