〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/06/08 (金) 血痕の跡も生々しく 

藤本 照子 (56)

昭和十七年、真岡郵便局電話交換手の見習として入局。戦況厳しく、婦女子が相次ぎ本土へ疎開する中、決死隊として残る。
二十年八月二十日早朝、出勤準備中に艦砲射撃を受ける。激しい銃撃のため局まで行けず、父と豊原まで非難、途中、同僚九人の乙女の訃報に接する。
真岡に戻り、再び交換業務につく、血痕のついた印鑑が友の悲劇を物語っていた・・・・・。

昭和二十年八月十三日頃から始まっていた本土への疎開は、私たちの住む真岡町栄町地区にも十八日と決められてきました。
当時、私の家には父母・姉とその子供一人、弟・私の六人がおりました。父は真岡郵便局の保険課に、私は電話交換に、それぞれ勤めていました。私は昭和十七年真岡尋常高等小学校卒業後、電話交換手の見習として入ったのです。
交換手の仕事は日本軍や測候所との大切な通信もあり、重要な任務でした。その為、交換手全員が一度に引き揚げてしまっては、交換業務に支障を来たします。そこで健康で家庭の事情などの許す人が残り、代わりに交換手となる真岡中学生を育成する事になりました。
引き揚げ命令が出ると、すぐ局に連絡、指示を受けるようになっていたので、急いで主任の所に駆けつけました。
途中、休憩室で先輩の可香谷シゲさんに会い、彼女から
「私は決死隊として残ることにしたけれど、あなたはどうするの?」
と聞かれ、私も即 「残る」 と答えたのでした。
父が一緒に残るという心強さもあり、そのうえ、四、五日で全員が引き揚げる計画であることから、私も名乗り出たのでした。
母は反対しましたが、私にはお国のためにこの職場を守らなくてはならないとの責任感と決死隊なのだという一種の誇りのようなものがありました。
先輩の可香谷さんは、私より五歳上で皆からお姉さんのように慕われていた思いやりのある人でした。あの殉職九人の乙女の一人になってしまうとは夢にも思っていませんでした。

翌十九日、母、姉の親子、弟の四人は無事疎開船に乗り込み、北海道へ向かいました。父と私は郵便局に出勤し、その日は特に緊迫した戦況は感じられませんでした。
二十日朝、八時からの勤務交替のため、六時ごろ起きた私は、二階の窓から霧の中に霞んでいる港を見ながら身支度をしていました。
当時、事務服にモンペをはき、防空頭巾を背にさげるという出で立ちでした。その時、近所の人の 「船が入ったぞ!」 とのざわめき声によく見ると、四隻の軍艦が目に入りました。突然、ドカーンという大砲の轟音に驚いて、家を飛び出しました。
決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛び交い、とても無理でした。父と二人で裏山へ逃げ込むのが精一杯でした。
あわてていた私は、気がつくと、空のリュックを抱え、下駄を履いているでは有りませんか。そのため険しい山道を逃げるうち鼻緒は切れ、裸足で歩くありさまでした。こんな状態で、夜は山道、昼は人家に隠れながらの強行軍でした。

豊原へ向かう中間点の逢坂という所で、九人の同僚が、青酸カリで自決した事を知らせれました。ショックのあまり言葉も出ず、その場に泣き崩れ、しばらくは一歩も歩く事が出来ませんでした。ソ連軍の攻撃が一時間遅かったら、私も間違いなく同じ運命をたどっていたでしょう。
豊原に着いて間もなく、避難民は、もと居た所に帰るように命令が出され、父と真岡に戻りました。家は焼失しており、郵便局関係者は局の合宿所に身を寄せました。そしてソ連の統治下では、仕事につかないと配給券が貰えないので、私は真岡郵便局の交換業務に復帰する事になりました。
あの惨劇のあった交換室に入ると、交換台その他はもとのままで、今にもブレスト (ヘッドフォーン) を身にして美しい声で交換する友やテキパキと仕事の指示を与える班長の高石さんが現れてくるようでした。しかし、監査席の上にいつもある出勤簿用の印箱を見た時 “ハッ” と現実に引き戻されました。その中の私の印にはこの席にいた高石さんのものではないかと思われる血痕がついておりました。
仕事をしていても、恐ろしいというよりは、亡くなった一人一人の顔が懐かしく浮かび、楽しかったことばかり思い出されます。
そして、町立病院の裏に葬られている殉職乙女たちの二つの土饅頭を見たときは、居合わせた友達とただ泣くだけでした。

ソ連軍統治下での仕事にも慣れ、少し落ち着いたものの、局内で恐ろしいことがありました。
ある当直日に、寝室へソ連兵が無断で入ってくるではありませんか。へたに抵抗してケガをした男子職員もいたので、恐怖のあまり同僚と二人で震えていました。すると、ソ連の女将校がピストルを突きつけ追い払ってくれたのです。
このことがきっかけとなり、なた一日も早く結婚したいと思い、郵便局を退職いたしました。
結婚生活も束の間、二十年十二月の雪の降る日、同居していた父が夜遅くなっても帰ってこないことがありました。夫と二人、三、四日も捜し回り、あげくの果て、知り合いのソ連の将校に調べてもらうと、豊原の牢獄に入れられている事がわかりました。父は山に入って、防空壕の中に隠してあった衣類を取りに行き、脱走兵と間違われたのでした。樺太の厳冬の中、毛布一枚しか与えられず、すっかり体をこわしてしまいました。ようやく帰ってきたときは、神経痛で歩けないほど衰弱しておりました。

このような日々の中、密造船で樺太を後にする人達を見送るうちに、しだいに “取り残されるのではないか” との不安な思いが続きましたが、なんとか昭和二十一年十二月十六日、やっと北海道に引き揚げて来れました。
毎年八月二日、稚内の 「九人の乙女の碑」 の前で行われる慰霊祭には、二回目から欠かさず参加しております。
私はこの碑ができた事で、彼女達の殉死が美化されては決してならないと思います。再び彼女達のような犠牲者を出してはならないのです。
この碑が立っている稚内公園の丘から見える眺めは、真岡の我が家からの景色に似ております。しかし、吾が故郷は、晴れた日、宗谷海峡の彼方にかすむ望郷の島となってしまいました。

『平和への願いをこめてJ樺太・千島引揚げ (北海道) 編 フレップの島遠く 』
編者・創価学会婦人平和委員会 発行所・第三文明社