〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/06/09 (土) 交換台に散った我が友 

原 君子 (62)

大正十一年、三男三女の次女として樺太の真岡に生まれる。
昭和十三年より真岡郵便局に電話交換手として勤務。
二十年八月二十日の殉職九人の乙女達の悲劇から免れるが、親友を失う。
父・母・兄・弟の四人が次々と病死する中、病弱な姉をかかえ四人家族の柱となって働く。

私は真岡尋常高等小学校を卒業して、昭和十三年に真岡郵便局に電話交換手として勤務しました。当時、ここは職業婦人をめざしている乙女たちの憧れの職場でした。
仕事は手動交換接続方式といわれるもので、市内通話、市外通話に分れていました。この電話網は樺太の中枢神経的役割を果たし、厳しい正確さが要求されていました。
一日三交替のきつい仕事でしたが、当時は皆お国の役に立っているのだという誇りを持って働いていました。
忙しい中にも、小学校からの親友で、共に陸上選手だった可香谷シゲさんと一緒に勤める毎日はそれは楽しいものでした。皆、向学心に富み、私も書いたり読んだりすることが大好きでした。
しかし、父・母・兄・弟を二年間に病気で次々と亡くしたため、経済的な理由から十六年にこの職場を去ることになりました。送別会の時、班の人達と撮った写真を見ると、私が一番淋しそうな顔をしております。

その後、病弱な姉と弟妹の四人暮らしとなり私は一家を支えるため、王子製紙工場の配給所に勤めました。 頼りにしていた弟は終戦一ヶ月前に入隊してしまいました 。
そして敗戦となり、次に起きてくる心配は宣戦布告したばかりのソ連軍の動きと、朝鮮人の不穏な行動です。彼らは長年日本人から虐げられ、しかも、ある日突然さらわれるようにして、無理やり樺太に連行されたのです。そして樺太ではおもに炭鉱での重労働を強いられたのでした。しかし、日本の敗戦によって、今度は自分たちの独立の時が来たと、仕返しに何をするかわからぬ恐ろしさがあったのです。夜になると、山や丘の方から幾つもの光の合図が見え無気味さを感じる毎日が続きました。

八月二十日早朝、引き揚げるため荷物を波止場の係員に預けようとして時でした。突然はるか沖合いからソ連の軍艦と思われる影が霧の中に現れたのでした。
係員の指示に従い、荷物はそのままにして、私たち姉妹も町内の人達と豊原へ避難することにしました。
クマザザが鬱蒼と茂っている原野を歩き続けましたが、途中、結核の姉は苦しいのか何度も道路にうずくまりました。少し横にさせようと道路脇で休むと、三人ともとうとう眠ってしまいました。
“はっ” と目を覚ますと、真っ暗で、一緒に歩いていた人達は誰も居ません。私達だけが取り残され、全く進む方向がわからなくなってしまったのです。
もう死ぬしかないと絶望的になっていた時、避難者用のトラックに助けられました。トラックに乗ったとたん、今まで張り詰めていたものがなくなり、三人ともそのまま気を失ってしまいました。
真岡から七十キロ以上もある道程をやっとの思いでたどり着いた豊原では大きなお寺に収容されました。しかし、豊原でも、近くの豊原駅周辺がソ連機による空襲を受け、生きた心地がしませんでした。
その後、もと居た所に帰るようにといわれ、十月頃、やっとソ連兵を運ぶ軍用列車で真岡に戻る事が出来ました。大勢のソ連兵と一緒の貨車の中では、顔を汚し髪を乱して娘らしく見えぬようにして、暗い隅っこの方に隠れるように乗っておりました。
幸い我が家は焼失せずそのままでしたが、家の中は足場のないほど荒らされておりました。町中はソ連兵が無気味に光る自動小銃を肩から下げてうようよしておりました。言葉の通じない人達に囲まれ、こんなところで暮らすのかと思うと気が遠くなりそうでした。
私達が豊原へ避難中、真岡では多くの民間人が犠牲になりました。とくに私の元の職場である真岡郵便局での “九人の乙女の死” はソ連兵の心をも揺さぶるほどでした。ある将校は、十字を切って冥福していたそうです。

当時の模様は、話によると次のようなものでした。
八月二十日早朝、ソ連軍が真岡港に向かったことを幌泊 (ホロドマリ) の監視所から受信した元同僚で班長だった高石さんは、宿直者全員を起こして交換台につかせ、緊急を告げるための電話回線を守ったのでした。
避難する町民のため、そしてこれからの状況を主要な町に連絡するために、最後まで職を全うしたのでした。港からは激しい艦砲射撃、町の角々には機関銃をすえつけて通る日本人を次々と撃ち殺すソ連兵、彼女達の身にも刻々と危機が迫って来るのです。そんな中で、敵の辱めを受けるくらいならと、用意していた青酸カリで自殺したのでした。
郵便局の最高責任者たる人もあまりの激しい銃撃に辿り付けず、自決を食い止められなかったそうです。電話局は警察と隣り合わせにあるので一番狙われ、後ろは崖で逃げる事が出来ない絶体絶命の状況だったのです。私も同じ立場であったなら、ためらうことなく皆と運命を共にしていたことでしょう。
後で、自決した親友の可香谷さんのお母さんに会った時 「自決する前日、娘から預かった白い布包みの中の預金通帳・印鑑・写真など、日頃大切にしていた物が形見となってしまいました。何も死ななくてもよかったのに、もう少しまわりの人が考えてくれていたら・・・・・」 と涙にくれていた姿が思い出されます。また、お兄さんは 「出勤の間際に妹から “内緒だけど万が一の時には、これを飲むんだから” といって、薬紙に包んだ青酸カリを見せてもらいました」 と語っていました。
後日、家族の方が遺体だけでも返してもらいたいと嘆願したのですが、四ヵ月後になってやっと許可が下りたそうです。発掘した時、遺体はどれもきれいでまるでお人形さんのようなのが救いだったそうです。

女所帯である我が家も引き揚げまでの二年間、泥棒やソ連兵の不法侵入など、毎日ハラハラのし通しでした。そんな中、結核を病んでやっとの思いで生きていた姉が二十一年七月に亡くなりました。敵の凶弾にではありませんが戦争の混乱の中で死期を早めたのでしょう。
その頃、思いもよらなかった人と結婚しました。その人は元軍人で捕虜の身ながらもソ連将校付きの通訳をしておりました。そのためシベリア送りは免れましたが、帰国の保証は定かではなく、幾度となく脱走を考えていたようでした。そこで私は気の毒に思い我が家にかくまうことにしたのです。それは、兵隊に行った弟もどこかで助けられてほしいとの思いからでもありました。厳しい捜索の中を幸いにも密告されずに、一般の人になりすましていました。発見されたら私もただでは済みません。なぜそんな危険を冒すのかと、友達は皆心配してくれました。
このように多くの人たちが軍服を脱ぎ、朝鮮人の密告を恐れながら民間人として生活していました。
二十二年一月、本土引き揚げが決まり、船が真岡港の岸壁を離れた時は 「ああ、これで助かった」 と主人と喜び合いました。着の身着のままでしたが、主人・妹・五ヶ月の長男、そして私の四人の生命を守れたことが唯一の財産です。
行方を探していた弟は、シベリア送りとなっており、再会できたのは引き揚げてから六年経ってからでした。抑留生活は身震いするような事ばかりで、死人を埋める作業などは日課の一つだったそうです。朝、目を覚ますと、隣に寝ていた友は冷たくなっている有様で、今日も生きていたと、まず自分の生を確認する日々だったそうです。
現在、私は孫に囲まれ幸せに暮らしておりますが、自決した友の事を考えると、彼女たちにもこのよな幸せがあるはずだったのにと残念でなりません。

『平和への願いをこめてJ樺太・千島引揚げ (北海道) 編 フレップの島遠く 』
編者・創価学会婦人平和委員会 発行所・第三文明社