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2007/05/29 (火) 近代国家と “圧搾空気” ・ 教育勅語 (五)

大日本帝国憲法は当時としてはモダンなものですが、つくったあとでちょっと不安になった。それでバランスをとって教育勅語を出した。もしくは圧搾空気にした。それが朱子学だった。
せっかく文明開化を興したつもりだったのに、もういっぺん朱子学を持って来るのはおかしいんじゃないか。これが、憲法起草者の一人である伊藤博文の考えというより、首のひねり方でありました。
しかしながら、ほかに日本にそれだけの思想はないわけであります。
圧搾空気をつくる能力がある福沢は数行しか言いません。仏教は、もう国家の圧縮空気になるほどの力を失っています。ですから、江戸期に二百七十年勉強してきた朱子学でいこうじゃないかという結果になった。
それが教育勅語としてまとめられた。短いですね。まとめてしまうと、非常に立派な徳目で書かれている。憲法発布と相連動して出来上がったわけですから、この時点では、それでよかったのかもしれません。
しかし、昭和元年ぐらいから昭和二十年ぐらいまでの間に、勅語と憲法との関係が、軍人の頭の中でややこしくなっていったのではないか。
昭和前期 --- そう勝手に私が名前をつけていますが ---- の二十年間は、日本の歴史の中でもちょっと異様だった時代であり、そこには、あるいは別の国だったかも知れないと思わせる、複雑な精神構造があります。
そこにひとつの伝統的な徳目だった、江戸期二百七十年間学び続けた朱子学が、教育勅語の形になって浮上した。伝統というほはかないのですが、配合の違いとかアクセントの違いがあったのでしょうか、昭和前期の国家の精神構造の中で重要な部分を占めていきます。
さらに軍人勅諭の問題とも絡み合います。非常にややこしい問題になります。
立憲国家としてややこしいと言っているのです。
法治国家ですから、天皇以下は憲法のもとにあるわけです。憲法に天皇の規定があり、憲法に内閣の規定があり、司法権がある。立法府があるわけです。
そういう法治国家を別個のものにしようというのが軍部でした。
何回も申し上げました統帥権という異様なものが、がん細胞のようにずっと出てくるプロセスがあります。
法治国家なのに、法的な解釈の中にこういう気分をスクランブルさせるというか、そういうことに教育勅語や軍人勅諭は利用された。
勅語も勅諭もそれなりに歴史的事情があるのにもかかわらず、つまり一種の毒素のような形で使われた。

坂東三津五郎さんの話に戻ります。終戦後、京都府立一中の校長先生を訪ねたら、 「ああ、どうぞ」 と言って案内された。三津五郎さんは、もちろん奉安殿を子供の時から知っています。それまで厳かだった奉安殿は、一種の物置のようだったそうです。がらんとしていた。奉安殿の中はこんなものなのかと思ったそうです。大変象徴的な話だと思います。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ