〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/05/20 (日) 何が魔法をかけたのか (三)

当時、参謀本部という異様なものがありました。
いつの間にか国家の中の国家になりました。国家中枢の中の中枢になりました。
そういう仕組みがいつ出来始めたかというと、大正時代ぐらいから始まっています。もうちょっとさかのぼれば、日露戦争の勝利の時が始まりでした。そいういう異様な権力、それがども魔法の素らしい。素らしいのですが、このあいだ亡くなった方で、最後は陸軍中将となった人がノモハンのときの作戦を担当していた人でした。
今から十年ほど前ですが、その人を料理屋に誘いまして、いろいろ話を伺いました。午後六時から十一時ごろまで、とにかく、よくおしゃべりになるお方でした。ところが、何事も出てきませんでしたね。ちょうど油紙の上に水をかけたように、つるつるはじくばかりで、聞き手の心に何も入ってこない言語が、ただ溢れているだけでした。
そしてノモハンのことを巧みに外して話されました。ノモハンのことを聞きたかったのですが、その話になると、なんだか官僚的な答弁が出るだけでした。要するに官僚です。ああ、こういう人がノモハンをやったのかという感じでした。
ノモハン事件は、当時のいわゆる満州と、ソ連の強い影響下にあったモンゴル人民共和国との境界線争いでした。日本側が思っていた国境線とソ連側が思っていた国境線とが違い、それを戦争で片づけようと日本軍が意図した。
ソ連軍は東方においてそういう紛争は起こしたくなかったけれども、起きてしまったものは仕方ありません。
事態が起きたい上は日本軍を叩きのめしてしまえということになった。兵隊上がりの名将で、ジューコフ (1896〜1974) という将軍に全権を与え、そして将軍が求める武器、弾薬すべてを与えてノモハンに集中させた。
一方、仕掛けた日本の装備はというと、まるで元亀・天正 (1570〜92) 、つまり織田信長の時代の装備にちょっと毛の生えた程度でした。あるのは大和魂だけだったのです。
ノモハンではよく戦いました。
日本軍の死傷率は75パーセントにものぼりました。引くも進むもなく75パーセントが死に、傷つきました。死傷率75パーセントというのは世界の戦史にないのではないでしょうか。よくぞここまで国民教育をしたものだと思います。ふつうヨーロッパのルールでは、35パーセントの死傷者が出れば、将軍は上の命令なくして退却してもいいようですね。
そういうこともせずに75パーセントですから、実感としては殆ど全滅している感じであります。そういう戦争をやった二年後に、太平洋戦争をやった。ちゃんとした常識のある国家運営者の考えることでは全くありません。
そういう国にわれわれは生まれました。太平洋戦争の戦局が悪化していく最後に、私は戦車隊に参加しました。そして敗戦であります。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ