〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/05/20 (日) 何が魔法をかけたのか (二)

人々はたくさん死にました。
いくら考えても、つまり、町内の饅頭屋のおじさんとか、ラジオ屋のおじさんなら決してやらないことですね。ちゃんとした感覚があれば、お店の規模を考えるものです。
ところが、こんな馬鹿なことを国家の規模でやった。軍人を含めた官僚が戦争をしたのですが、いいたい大正から昭和までの間に、愛国心のあった人間は、官僚や軍人の中にどれだけいたのでしょうか。
むろん戦場で死ぬことは 「愛国的」 であります。しかし、戦場で潔く死ぬことだけが、愛国心を発揮することではないのです。四捨五入して言っておりまて、あるいは誤差を恐れずに言っています。
私自身の経験を言いますと、私は戦闘に参加したことはありませんが、どういう状況になっても恥かしいことはしなかっただろうと思います。周辺の人間数人、あるいは数十人の人間を前にして、みっともないことをしたくないという気持ちですね。それがあれば、人間は毅然とすることが出来ると思います。それは愛国の感情とは違う問題になります。
むろん、愛国心はナショナリズムとも違います。ナショナリズムはお国自慢であり、村自慢であり、家自慢であり、親戚自慢であり、自分自慢です。
これは、人間の感情としてあまり上等な感情ではありません。
愛国心、あるいは愛国者とは、もっと高い次元のものだと思うのです。そういう人が、はたして官僚たちの中にいたのか、非常に疑問であります。

私は、ノモハン事件のことを調べてみたかったのです。ずいぶんと調べました。資料も集めました。人にも会いました。会いましたけれども、一行も書いたことがないのです。それを書こうと思っていながら、いまだに書いたことがなくて、ついに書かずに終るのではないか、そういう感じがします。
日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締め付け、これらは全部変な、いびつなものでした。
この魔法は何処から来たのでしょうか。魔法の森からノモハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をすることになりました。
たとえば、戦国時代の織田信長 (1534〜82) だったら考えもしないことですね。信長にはちゃんとしたリアリズムがあります。自分でつくった国を大切にします。不利益になることはしません。
国というものを博打場の賭けの対象にする人々がいました。そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまった人々の心理だったのではないか。
私は長年、この魔法の森の謎をとく鍵をつくりたいと考えてきました。
たとえば、これをマルクス主義に当てはめれば、パッと一言でこれだということになるのかも知れませんが、それでは魔法の森の謎を解くことは出来ません。
手づくりの鍵で、この魔法の森を開けてみたいと思ってきたのです。どうも手づくりの鍵は四十年たっても出来たのか、出来ていないのか ---- その元気があるのか、ないのか ---- とにかくその鍵を合わせて、ノモハンについて書きたかったのですけれども。
あんな馬鹿な戦争をやった人間が、不思議でならないのです。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ