〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/05/19 (土) 何が魔法をかけたのか (一)

人間は年をとるものですね。
私はいつまでも若いと思っていたのですが、もう半世紀にプラス十二年、生きてきたことになります。大正十二年、1923年の生まれです。
これからしばらくの間、昭和元年から昭和二十年の敗戦までを考えていきたいと思うのですが、私の少年時代は昭和の初めです。
これは、私の仮の用語です。元年から二十年までを昭和前期とし、敗戦からその後を昭和後期としますと、昭和前期の私は虫みたいなものでした。ただ少年期を生きてきて、やや青年になったいうだけの時期です。そして私にとって敗戦の時が二十二歳でした。
敗戦はショックでした。
このショックはちょっと説明しなければなりませんが、なんとくだらない戦争をしてきたのかと、まず思いました。そして、何とくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろうと思いました。
敗戦の日から数日、考え込んでしまったのです。昔の日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後に私の日本史への関心になったわけですね。
私自身の少年期を語るつもりはないのですが、どんな人間だったかを簡単にお話しますと、まずこの時代にはパニックがありました。
昭和五年 (1930) の大恐慌は少年の身にも、 “空気” として相当にこたえました。いくら道をうつむいて歩いても五銭玉ひとつ落ちていない。五銭でパンが買えますからね。町には失業者があふれ、国じゅうが不景気にあえいでいた。人間は食べていくのが大変だと、いまの人が林芙美子さんの 『放浪記』 をお読みになっても相当深刻な状況がわかると思います。これが昭和初年でした。
中学に入った頃、いわゆる当時の言葉で支那事変 (日中戦争) が起きました。父親がお客と話をしていて、
「戦争になりますな」
という言葉が耳に入ってきました。そのとき感じた戦慄をよく覚えています。体じゅうが震えてくるような、動物的な戦慄でした。
私はべつに自分が臆病な人間ではないと思っているのですけれど、少年というものは非常に動物的なものですね。少年は勇気よりも臆病のほうが心理の多くを占めていて、それが生物としての少年期を保護していると思います。非常な恐怖、恐ろしいものがやってくるという感じに襲われました。昭和十二年 (1937) であります。

私は学校が嫌いな少年でした。
人にものを教えてもらうこと、ものを習うことに不向きな人間でしたね。
授業の時間には教室で四十人、五十人と一緒に一時間ほどじっとしていなければなりませんが、これほどつらいことはありませんでした。世の中に学校がなければいいと思っていましたし、図書館と本屋があれば人間はそれでいいんだと思っていました。世の習いで、仕方なく学校に通っていたわけです。
そして、だんだん学校で社会訓練を受けるうちに、どういうわけだか中国人と朝鮮人が好きになりました。
短い間に説明するのは不可能なのですが、彼らは非常に人間というものを感じさせてくれました。私に感じさせてくれた存在として、恩人といってのいいのですが、その中国と戦争するという。
やがて世界と戦争するようになった。私はなお学校に行っていましたが、日本が嫌いだと思いましたね。
嫌いといっても、非常に好きだということの裏返しなんです。こういう感情を西洋人はうまく言い表します。
"アンビバレンス" という便利な言葉があります。そういう気持ちでした。
父親が非常に頑固で自分の前に立ちはだかる壁である場合、父親を憎悪することが社会を呪うバネになります。けれども、私の父親はごじゅ普通の人間でした。悪いことをしない。正直で律義な、少し私よりも品のある人間でした。ですから父親を憎悪することも出来ないまま、学校の途中から軍隊に入れられてしまったわけです。
いわゆる満州 (現・中国東北部) という所にいまして、そして敗戦の年の半年ほど前、連隊ごと関東地方に帰りました。
そこで敗戦を迎えました。何と言いますか、何をしている国かという感じです。何をしている国、いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモハン事件でした。昭和十四年 (1939) 、私が中学の時のことでした。こんな馬鹿な戦争をする国は、世界中にもないと思うのです。
ノモハンには、実際に行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモハン事件に参加していました。
いったい、こういう馬鹿なことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、日本人とは何か、ということの最初の疑問となりました。
これは兵隊だった頃から考えていました。そして敗戦の時に、しみじみと感じました。

『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ