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2007/05/27 (日) 明治政府のつらさ・軍人勅諭 (五)

ところが昭和の初めぐらいになりますと、軍人勅諭は神の声になっていきます。
独り歩くし始めます。
軍人は軍人勅諭を奉じている。その軍人勅諭を一ヶ所読み違えたというので自殺してという真面目な青年将校も出てきた。クリスチャンにおける聖書よりも強い、きつい一種強制力を持ったものとして軍人勅諭は独り歩きを始めたわけであります。
昭和期の軍人は非常に乱暴でした。
国家を引きずり回し、国家を自分たちの考えているイリュージョン (幻想) のとおりに持っていき、博打場にひと財産投げ込むようなやり方で、国家を賭け物に使いました。
軍人勅諭には、軍人は政治に関与してはいけないということが書いてある。昭和の軍人たちは中身を読んでいなかったのでしょうか。
たとえば武勇の項におきましても、こう書いてあります。
もろびとに愛され尊敬されるようになることを心がけよとあります。

「由無き勇を好みて猛威を振ひたらば、果ては世人も忌嫌ひて、?狼 (サイロウ) などの如く思ひなむ。心すべきことにこそ」
と。
きちんと書いてあります。
昭和期の軍人の乱暴な姿に対して、予言でもしたかのように戒めている。にもかかわらず、軍人たちは内容に拘っていないようです。
では、軍人勅諭の何が肝心だったのでしょうか。
例えば佐賀県なら佐賀県の田舎に二人の秀才がいて、一人が東大に進み検事になり、もう一人は軍人になったとします。其の軍人は、検事には特別の勅諭はないけれど、おれにはあるんだと考えるようになったのです。
自分たちの職業は、ほかとは非常に違う職業だと思うようになった。
特にですね、
「朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ」
というような条があります。つまり親玉だと思えということですね。
つまりどんな職業でも、天皇からそんなことは言われていないからと、軍人は思い込んだ。これが最初の段階でして、思い込んでいるぶんにはいいのです。
なぜかといえば、そう思わなければ軍人は戦場で死ねませんから。どこの国の軍隊でもある現象であり、思い込むのはいいのです。ところが昭和の軍人たちは、それを憲法解釈に使い始めたわけです。
くり返し申し上げておりますように、明治憲法というものは三権分立という点においては近代憲法でした。
だからこそ近代国家が成立したにもかかわらず、統帥権が浮上します。
憲法立案者である伊藤博文が思いもしなかったことを持ち出してきた。もちろん憲法にも天皇が陸海軍を統帥するという項目が一条あります。しかし一条しかない。
それに軍人勅諭を援用した。イギリスの法思想における慣習法のようにしてですね、軍人勅諭を位置づけていった。
おれたちは特別なんだ。おれたちは天皇に直接、軍事的なプランを言うことが出来るのだと言い始める。これが 「帷幄上奏権 (イアクジョウソウケン) 」 というものでした。帷幄とは天幕です。軍隊の天幕のことをいう古い漢語ですね。天幕の中に一番偉い人がいて、そこに参謀が行って相談をする。内閣も会議も関係なしに、軍人が相談できるという権利です。
旧憲法において最終責任は国務大臣にあることになっています。天皇は、能動的には政治的なアクションはいしないと決められている。ノーも言うべきではない。明治天皇以後、歴代の天皇は実によく憲法教育を受けていますから、そうしないようになっている。これは明治憲法の基本の形であります。
ところが、統帥権は天皇をも巻き込みました。天皇はイエスもノーも言わなかったはずです。満州事変を起こすことを天応に報告したことはなく、事を起こして、既成の事実になってから後日に報告した。帷幄上奏権を利用したのですね。軍人はそういうことを昭和初年から始めるようになった。
昭和三年 (1928) に出された 『統帥参考』 という本があります。極秘中の極秘の本でありまして、憲法解釈が述べられています。その本を見ることが出来るのは、市谷の参謀本部の参謀肩章をつけた将校、あるいは陸軍大学校の学生だけでした。敗戦の時、市谷でいろいろ焼いた文献の中で、一番先かどうかは知りませんが、一冊残らず焼いたといわれています。
ところがその後、どういうわけだか復刻されたものですから、私も読んだことがあります。統帥権についてずっと書いてありました。
国が戦争になった場合、統帥機関が日本国民を統治すると書いてありました。
天皇が統治するのではないのですよ。統帥機関とは、統帥権を持っている機関のことです。つまり参謀本部です。
統治するという言葉は、思い言葉です。統治する主体は天皇以外にはありません。それなのに統帥機関が統治すると書いてある。秘密クラブみたいな話ですが、昭和三年の秘密文書ではこうなっていた。
昭和十年 (1935) 、日本の明治憲法の一般的な、ごくポピュラーな解釈だった美濃部達吉 (1873〜1948) の著作 『憲法精義』 が発禁処分となりました。美濃部さんは貴族議員を逐われます。
内務官僚たちは縮み上がりました。
官僚はみな高等文官試験を通ってきています。東京帝国大学教授だった美濃部さんに憲法を教わり、そして高等文官試験の試験員が美濃部さんですから、美濃部憲法によって、みな官僚が出来上がっていた。その憲法解釈がストップしたのですから、震え上がるでしょう。
統帥権が生き生きと息づいてくるのは昭和十年以後のことであります。末期においては、 『統帥参考』 に書かれているように、日本国を占領しようとした。いや、していたのでしょう。支配というよりも占領したわけであります。それが私の言う魔の十年、昭和十年から二十年というものだったと思います。
『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ