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2007/05/26 (土) 明治政府のつらさ・軍人勅諭 (四)

もっとも、私が問題にしたいのは西南戦争の前の出来事なのです。
薩摩兵が大挙故郷に帰るときの様子はすごかったそうですね。
薩摩の将校たちがかぶっている帽子の鉢のまわりは緋色でした。その帽子を投げ捨てるのが故郷に帰る、つまり連隊をやめる合図になったのでしょう。みな次々に連隊の池に帽子を投げ捨て、その池が帽子で真っ赤になった。
薩摩士族たちは近衛士官ですね。
東京政府を守るのが仕事であり、天皇を守るのが仕事です。ところが、近衛の薩摩兵、特に将校たちは、こんな馬鹿な政府と一緒にできるかと帽子を投げ捨てていく。ここでは天皇に対する忠誠心というものを見ることは出来ません。
西郷といえどもですね、とにかくこの政府は気にくわんと言って帰ってしまうわけですから、非常に危険な政治状態だったと思います。
そして西南戦争がおさまった後で、もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだと政府は考えた。そこで登場したのが軍人勅諭でした。まずその前段階のものがありました。これは勅諭ではなく、山形有朋 (1838〜1922) が出したものでした。
山形はやがて陸軍を主宰していく男ですね。偉い人は皆戊辰戦争 (1868) で死に、西南戦争で死に、山形にこんなことを言っては悪いですけれど、維新の英雄たちに比べれば二流の人ですね。
いままで西郷が大将だった。あるいは西郷の次の薩摩人が大将だったのですが、そのポジションに山形が座ります。
あまり広がりのない精神、しかしながら権謀術数の能力を持った人が頂点に立った。山形は軍人に対し、もうちょっと違った思想を持つべきだと、もっとまとまれ、君たちは国家の軍隊なんだというようなものを出しました。しかし簡単には浸透しませんね。
そして明治十五年 (1882) 、西南戦争から五年たって軍人勅諭が出されるわけです。
これによって軍人は、つまり天皇の軍隊だということになった。
勅諭は法律ではありませんからね。
ひとつの諭しなのですが、それでも山形が言うよりはずいぶん有効だったわけであります。
軍人勅諭というのはですね、明治二十三年 (1890) に出る教育勅語よりもずっとわかりやすい文章です。
教育勅語は、客観的な叙述法で軌範を述べています。前に申し上げましたように漢学者がつくったものでして、漢文そのものでした。わかり難いものだったのですが、軍人勅諭はわかりやすい。軍人がもう一度爆発すると国が駄目になるという、必死の思いがあるからですね。
軍人勅諭は軍人を諭します。
軍人は一つにならなければ駄目だ、軍人は政治に関与しては駄目だ、もう二度と爆発するな。
必死に諭してあります。
その文章は西周 (ニシ アマネ) (1829〜97) が起草しました。この人は漢文の達人でしたから、漢文的な文章を書く人でしたが、それでは硬いと思ったのでしょうね、さらにブラッシュアップといいますか、ちょっと手を入れてもらっています。そのおかげで、いま読んでもわかりやすいものになったのです。
その手を入れた人は福地桜痴 (フクチ オウチ) (1841〜1906) でした。
福地は才人としか言いようのない人ですね。幕臣の出身で、とにかく洋学は出来るし、芝居の台本も書ける、それから吉原に遊びに行くのが大好きな人でもある。いわゆる文士といったほうがいい人でして、東京日日新聞の主筆も務めています。
とんかく非常に軟らかい文章を書ける人ですから、この人が手を入れたおかげで非常にわかり易くなったのです。

その中にですね、やはり西郷を意識した条 (クダリ) があります。

「古より或は小節の信義を立てんとて、大網の順逆を誤り、或るは公道の理非に踏迷ひて、私情の信義を守り、あたら英雄豪傑どもが禍に遭ひ身を滅ぼし、屍の上の汚名を後世まで遺せること、其例尠からぬものを、深く警めてやはあるべき」
さらに、こういう言葉があります。
軍人勅諭の中の非常に大事な部分でしょうね。
「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」
という条です。
ここに大変なアクセントが置かれています。
西南戦争で薩摩へ帰って反乱を起こした兵隊たちは、天皇をもって大元帥とするとは全く思っていなかった。 自分たちの首領であるとは考えていなかった。幕末以来の志に殉じたに過ぎません。
天皇さんというのは京都から来られたお公卿さんの親方だと、その程度にしか思っていなかった薩摩人もいます。
がから、明治十五年の段階ではっきり、おまえたちは国家の軍隊だぞと諭しているのですが、其の国家というものがはっきりしていない状態でした。
いきなり公民国家の意識が生まれるはずもありません。まだ藩の気分が濃厚に残っていたと思います。
私の先祖は播州の百姓でした。先祖も明治政府が出来たということは知っていたでしょうが、国家という、子の目に見えないものの事は分からなかったと思います。
まして旧幕臣、時流の波に乗り損ねた旧薩摩人、長州侍たちょも同じでしょう。伊藤博文 (1841〜1909) 井上馨 (1835〜1915) 木戸孝允 (1833〜77) などがうまい目をみていると思う、その程度の認識であります。
国家という目に見えないものが出来たと言われてもわからない。そこで天皇を持ち出したのでしょうね。
「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」
西南戦争から五年が経っていますから、この方がまだわかる。そしておさまりがつく。
これが軍人勅諭の成立までの政治的、歴史的な状況でした。
『昭和という国家 』 著・司馬 遼太郎 発行所・日本放送出版協会 (NHK出版) ヨ リ