もっとも、私が問題にしたいのは西南戦争の前の出来事なのです。
薩摩兵が大挙故郷に帰るときの様子はすごかったそうですね。
薩摩の将校たちがかぶっている帽子の鉢のまわりは緋色でした。その帽子を投げ捨てるのが故郷に帰る、つまり連隊をやめる合図になったのでしょう。みな次々に連隊の池に帽子を投げ捨て、その池が帽子で真っ赤になった。
薩摩士族たちは近衛士官ですね。
東京政府を守るのが仕事であり、天皇を守るのが仕事です。ところが、近衛の薩摩兵、特に将校たちは、こんな馬鹿な政府と一緒にできるかと帽子を投げ捨てていく。ここでは天皇に対する忠誠心というものを見ることは出来ません。
西郷といえどもですね、とにかくこの政府は気にくわんと言って帰ってしまうわけですから、非常に危険な政治状態だったと思います。
そして西南戦争がおさまった後で、もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだと政府は考えた。そこで登場したのが軍人勅諭でした。まずその前段階のものがありました。これは勅諭ではなく、山形有朋
(1838〜1922) が出したものでした。
山形はやがて陸軍を主宰していく男ですね。偉い人は皆戊辰戦争 (1868) で死に、西南戦争で死に、山形にこんなことを言っては悪いですけれど、維新の英雄たちに比べれば二流の人ですね。
いままで西郷が大将だった。あるいは西郷の次の薩摩人が大将だったのですが、そのポジションに山形が座ります。
あまり広がりのない精神、しかしながら権謀術数の能力を持った人が頂点に立った。山形は軍人に対し、もうちょっと違った思想を持つべきだと、もっとまとまれ、君たちは国家の軍隊なんだというようなものを出しました。しかし簡単には浸透しませんね。
そして明治十五年 (1882) 、西南戦争から五年たって軍人勅諭が出されるわけです。
これによって軍人は、つまり天皇の軍隊だということになった。
勅諭は法律ではありませんからね。
ひとつの諭しなのですが、それでも山形が言うよりはずいぶん有効だったわけであります。
軍人勅諭というのはですね、明治二十三年 (1890) に出る教育勅語よりもずっとわかりやすい文章です。
教育勅語は、客観的な叙述法で軌範を述べています。前に申し上げましたように漢学者がつくったものでして、漢文そのものでした。わかり難いものだったのですが、軍人勅諭はわかりやすい。軍人がもう一度爆発すると国が駄目になるという、必死の思いがあるからですね。
軍人勅諭は軍人を諭します。
軍人は一つにならなければ駄目だ、軍人は政治に関与しては駄目だ、もう二度と爆発するな。
必死に諭してあります。
その文章は西周 (ニシ アマネ) (1829〜97) が起草しました。この人は漢文の達人でしたから、漢文的な文章を書く人でしたが、それでは硬いと思ったのでしょうね、さらにブラッシュアップといいますか、ちょっと手を入れてもらっています。そのおかげで、いま読んでもわかりやすいものになったのです。
その手を入れた人は福地桜痴 (フクチ オウチ) (1841〜1906)
でした。
福地は才人としか言いようのない人ですね。幕臣の出身で、とにかく洋学は出来るし、芝居の台本も書ける、それから吉原に遊びに行くのが大好きな人でもある。いわゆる文士といったほうがいい人でして、東京日日新聞の主筆も務めています。
とんかく非常に軟らかい文章を書ける人ですから、この人が手を入れたおかげで非常にわかり易くなったのです。
その中にですね、やはり西郷を意識した条 (クダリ) があります。
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